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und es sahe der achtsame Mann das Angesicht des Gottes genau...

ハイデガーの技術・芸術論(1967)(前)

 1967年4月4日にアテネ学芸アカデミーで行われた講演をもとに校訂された『Die Herkunft der Kunst und die Bestimmung des Denkens(芸術の由来と思索の使命)』にはハイデガーKunst(技術・芸術)についての考えが端的に述べられている。

 本書の第5論文として収められている当該テキストについて、その全体は大きく3つの部分に分けられる。

  1. 古代ギリシャにおけるテクネー(技術・芸術)論
  2. 科学と方法に裏付けられた近現代の社会と私たち
  3. 思索しつづけることの必要性

   ◆ ◆ ◆

 テクネー論は次のように開始される。

テクネーという語は一種のを名指している。それは作ることや製造することを意味するのではない。この知は、造形物や作品を制作するさいに不可欠なものをあらかじめ看取することを意味する。作品は、学問の、哲学の、詩作の、弁論の作品でもありうる。(…)テクネーとしての芸術はある種の知にもとづくのであり、そしてそのような知が、形態を - 指示し、尺度を - 与えるが、いまだ目に見えないもの、――このものはようやく作品において目に見え、耳に聞こえるようにされることになるのだが――をあらかじめ看取する[vorblicken]のである。(※太字処理は以降筆者による)

 そうして現実のものとなる作品の形を形づくるその輪郭について話が進む。

限界はものの輪郭や枠にすぎぬのではなく、そこでなにかが終わっていまうところにすぎぬのでもない。限界とは、それによってなにかがその固有なものへと集められるようなものなのである。かくして限界からそのなにかはそれに固有なものに満たされて出現する。すなわち現前性[Anwesenheit]のうちへと現れ出る[hervorkommen]。

 ハイデガーはここで「ものの存在の様相」を描きだそうとしているようにみえる。それは現実・現存・実存という観点から真の存在の相を記述しようとするものである。いずれにせよここまでの話は次のようにまとめられるだろう。

人間の行為はそのようにして明らかに看取されたものを作品という目に見えるものへと生み出す[hervorbringen]のである。

   ◆ ◆ ◆

 テクネー論の後半は「ピュシス*1との関連のうちに述べられる。まず、ピュシスとは何か?

ピュシスとは、それ自体からそれのそのつどの限界のうちへと立ち現れてくるもの[Aufgehende]、そしてそのうちにとどまる[verweilen]ものなのである。

 こう述べたうえで、人間ではなくピュシスの優位のうちに芸術が発現したのだとハイデガーは考える。

世界の全体それ自体をピュシスとして人間に言い渡し[zusprechen]、そして人間をそのピュシスの語りかけ[Anspruch]のうちに受け入れた、ここ、ギリシアでのみ、人間の聞くことと行いとは、ただちにその語りかけに応答することができたし、応答せざるとえなかった――それまでになお出現していなかった世界作品として出現[erscheinen]させることになるものを、自分自身から、自分自身の能力にもとづいて、現前性へともたらすということを迫られるやいなや。

 けっして人間という要因を否定するわけではないが、かといって作品はピュシスなくしては存在しえないのである。
 人間の制作プロセスはピュシスへの応答として述べられる。ハイデガーはここで人間が主体となるような表現を巧みに避けている。
 テクネー論の最後は次のように締めくくられる。

芸術はピュシスに応答するが、しかしそれはすでに現前しているものの模造でも模写でもない。ピュシステクネーとは秘密に満ちたしかたで共に属しあっている。しかし、ピュシスとテクネーとが共に属しあう領域と、芸術が芸術としてその本質において存在するものとなるために関与しなければならない領域とは、依然として伏蔵されたままである。

 ハイデガーは古典的な芸術理論であるミメーシス*2の理念をここではっきりと排除する。
 そのうえで、ピュシス[自然]とテクネー(技術・芸術)の共通部分[あるいは応答関係]と、いわゆる芸術の本質とはいまだ謎に包まれたままだと述べる。このあたりの記述は簡潔ながらも(はっきりいって)錯綜しており、またどうにも思わせぶりな書きぶりだが、意図としてはおおよそ、自然と芸術との応答関係にこそハイデガーが思索しつづける存在の謎(神秘)のエッセンスが隠されているといったようなものだろうか。芸術――ハイデガーにおいては詩作がその代表であるが――についての思索が存在への思索につながるというハイデガーの基本的立場がここに表明されているとも考えられるだろう。ヘルダーリンの詩作に導かれて存在への思索の道を歩むハイデガーにとって芸術は外せないものなのである。

 ページを変えて本著作の最終場面をみていきたい。

*1:ピュシスはいわゆる「自然」の語源とされる語であるが、ハイデガーは西洋的あるいは人間中心主義的な自然観を避けようとする。そのためピュシスが指すところの自然は単なる物理的環境資源としての自然というより、むしろ混沌として人間には及びつかず、しかしすべての根源たる自然[原-自然]というイメージがふさわしいように思える。

*2:ミメーシスは模倣や再現を意味する語。

楽譜・楽器・人・社会からみる西洋音楽史

 たとえばカール・ダールハウスが『Grundlagen der Musikgeschichte(音楽史の基礎)』(1977)で述べているように、名曲(古典)および天才作曲家の列挙が音楽の歴史を述べるときの最善手とは限らない。19世紀以来の伝統的な音楽史教養主義ナショナリズムカントの天才論から大きな影響を受けている。20世紀に入るとそういった旧来の歴史記述を相対化し、より多角的に音楽史をみていく流れが加速する。

西洋音楽史再入門: 4つの視点で読み解く音楽と社会

西洋音楽史再入門: 4つの視点で読み解く音楽と社会

 本書は名作名曲の音楽史ではない。最新の音楽学および音楽社会史の研究成果を踏まえた多面的な音楽史のいわば事典である。項目はまさに網羅的で多岐にわたり、極めて扱いやすい。

第1章 楽譜と音楽史
 第1節 ネウマ譜の時代
 第2節 多声化と自由リズム
 第3節 楽譜の印刷と出版
 第4節 タブラチュアの意義
 第5節 近代五線記譜法の誕生と発展
 第6節 楽譜出版の隆盛
 第7節 楽譜に書かれること/書かれないこと
 第8節 現代の楽譜


第2章 楽器と音楽史
 第1節 キリスト教と楽器
 第2節 中世・ルネサンスの楽器
 第3節 器楽の確立
 第4節 バロック期の器楽(1)―― 鍵盤楽器の活躍
 第5節 バロック期の器楽(2)―― オペラと楽器
 第6節 器楽の世紀(1)―― ピアノの時代
 第7節 器楽の世紀(2)―― オーケストラの拡大と器楽の抽象的表現
 第8節 20世紀の器楽


第3章 人と音楽史
 第1節 聖職者は音楽家か
 第2節 騎士歌謡
 第3節 町楽師の登場と巷の音楽
 第4節 宮廷楽団と宮廷楽長
 第5節 自立への道
 第6節 公開演奏会の時代
 第7節 ディレッタントの盛衰
 第8節 女性音楽家の登場
 第9節 音楽鑑賞の変遷
 第10節 人と音楽の関わり


第4章 音楽と社会
 第1節 教会の音楽
 第2節 宮廷の音楽
 第3節 市井の音楽
 第4節 劇場とコンサート・ホール
 第5節 サロン音楽と家庭音楽、市民の音楽
 第6節 録音・放送と音楽

 以上、目次からの抜粋である。記述はかなり中立的で基本書としての性質を併せもつとも言える。ふと調べたくなったときに重宝する。

パウル・ベッカーのブルックナー論(後)

 ベッカーは第8章第5節でさらに続けてこう述べる。

オーケストラの音楽史: 大作曲家が追い求めた理想の音楽

オーケストラの音楽史: 大作曲家が追い求めた理想の音楽


1.和声進行を重視した旋律および構成

ブルックナー交響曲の主題は、ワーグナーの主題同様水平方向に引き延ばされたハーモニーである。そして、古典派交響曲とのまったく見当違いな比較のせいでよく誤解されるその形式は、最終的に達成される、ハーモニーを中心に据えた展開とのバランスの上に成り立っている。(…)水平方向に目を転じると、主題あるいはメロディーがハーモニーの下から姿を現し、またしばらくするとハーモニーに回帰するといた現象が目に入る。(※太字処理は筆者による)

 これはたとえば第7交響曲の冒頭などを思い浮かべるといいかもしれない。


2.オーケストレーション

それは純粋にワーグナー風のオーケストレーションと言えるだろう。(…)彼のオーケストラはハーモニーを奏でるためのオーケストラであり、作品の根底にある和声的なアイデアを伝えることをおもな目的として構成されている。(…)オーケストレーションに関して言えば、純粋にハーモニー主体であるという基本的な性格に変わりはない。同じ理由で楽器同士のやりとりは、個別ではなくグループごとに行われる。基盤となるのは金管楽器であり、その上に木管楽器が乗り、一番上が弦楽器である。(※太字処理は筆者による)

 主題については基本的には弦五部が中心的存在だとは思うが、ハーモニーに関して言えば確かに金管第一主義であるといえる。いずれにせよ木管軽視の傾向は否めないだろう。*1


3.まとめ

ブルックナートレモロピッツィカートを偏愛と呼べるほど頻繁に使用し、(…)持続低音を多用した。(…)もう十分と思われるほど重厚な和音、心を揺り動かす輝かしい響き、永遠に続くかと思われるようなクライマックスなどを特徴とするブルックナーのオーケストラは、あらゆる制約を乗り越えて、無限の大きさを求めるているように思われる。(…)実際にオーケストラのモデルとしたのはオルガンであり、それを拡大して限りなく豊かな音を実現しようとしたのである。(※太字処理は筆者による)

 19世紀の作曲家はヴィルトゥオーゾ系の作曲家が多くいたから(ショパンやリスト等)、どちらかというとそのような方向性での総括となっている。実際、オルガニストとしてキャリアをスタートした作曲家は19世紀ドイツ語圏にはほとんどいない。*2


 ベッカーの時代、まだノヴァーク監修による楽曲校訂は行われておらず、そのためいわゆるノヴァーク版*3による演奏などというものは存在しえなかった。ベッカー自身のブルックナー体験の多くはおそらく、弟子たちの改作編集が加えられた楽譜での演奏、そして徐々にではあるが広がりをみせていたハース監修による「原典版」(今日でいうハース版)での演奏を通じて培われたものだと推測される。現代からするとかなり限られた条件とも思われるが、しかしベッカーが描くブルックナー像は極めて整然として明確である。その鋭い指摘は80年経過してもなお色あせない。

*1:フルートに関しては第7交響曲アダージョ第2主題などアダージョ楽章で重要な役割を果たす傾向にあるようにも思える。

*2:ブルックナーはまずオルガニストとしてヨーロッパ各地でデビューを果たした経歴の持ち主である。

*3:戦後、ハースとナチスとの密接な関係が明るみに出たことでハースは追放され、ハース監修による原典版全集計画は頓挫した。ハースに代わって新計画の責任者となったのがノヴァークである。

パウル・ベッカーのブルックナー論(前)

 パウル・ベッカー(1882~1937)は『ベートーヴェン』や『西洋音楽史』等の著作で知られるドイツの音楽評論家である。

オーケストラの音楽史: 大作曲家が追い求めた理想の音楽

オーケストラの音楽史: 大作曲家が追い求めた理想の音楽

 この著作にはブルックナーを評した箇所がある。ベッカーがこれを書いたのが1936年のニューヨーク*1であることから、ブルックナー交響曲をいわゆる原典版(ハース版)*2で聞くことができたのは最大でも「第1番」「第5番」「第6番」「第9番」であると推測される。*3


1.ブラームスとの比較

 ベッカーはブラームスとの比較を通じて次のように述べる。

ブラームスの作品が論理的な展開を見せるのに対して、ブルックナーの作品はシンプルな構造を持ち、一歩一歩踏みしめるように進行する。ブラームスが簡潔さと堅牢さを併せ持った曲を書いたのに対してブルックナーゆうゆうとどこまでも流れていく大河のような曲を書いた。そしてブルックナーの音楽は淡々と進行するため、自らの心のうちをさらけ出すような場面とは無縁である。ブラームスの重厚な音楽がそうした要素を内に秘めているのとは対照的だ。(※太字処理は筆者による)


2.ワーグナーからの影響

 ワーグナーの半音階的な和声法から受けた影響については次のように述べる。

創作活動の中核は人間の理知的な力が及ばない意識の深層へともぐり込み、そこからふたたび浮かび上がってくるものは、もはや主題の個性ではなく、音の集合体としての和音である。個々の和音は互いに引かれ合ってハーモニーをかたちづくる。このように主題の個性を超越したプロセスが転回するなかで、曲の基本的なイメージが決定する。またこうした展開は、ゆとりある形式を必要とし、気まぐれな曲想の変化が呼び起こされる。その結果主題の個性に基づくこまごまとした展開は失われるのである。それまでは曲を構成する要素のひとつにすぎなかったハーモニーは、それ自体が複雑な完結した世界を構成するようになり、決定的な重要性を獲得することで、曲づくりのための根源的な力へと変貌したのである。(…)つまり音楽以外の要因を排除して、ワーグナーが切り開いた新天地から音楽に直接かかわる部分のエッセンスだけを吸収したのである。(※太字処理は筆者による)

 以上、本書の第8章第4節に相当する部分である。ページをあらためて第5節に相当する部分もみていきたい。

*1:ベッカーはユダヤ系ドイツ人であったため当時アメリカへ亡命していた。

*2:ブルックナーの弟子たち等によって改作編集されていない、当時としての最新の原典版のこと。

*3:根岸/渡辺『ブルックナーマーラー事典』を参考とした。

近代的芸術観の成立

 我々が今日いわゆる「芸術」と呼んでいるものは正しくは「西洋近代芸術」と呼ばれるべきだろう。

芸術の逆説―近代美学の成立

芸術の逆説―近代美学の成立

 以下、私が重要だと感じた箇所まとめである。

■18世紀中葉のヴォルフ学派の理論

  • 神による創造(可能的世界の創造)というモチーフを芸術家の創作活動にも準用
  • 芸術家の創造と自然模倣説の調停(バランス):芸術家の創作行為は、神になりかわって可能的世界を創造する(現実化する)という限りにおいてのみ許容される(あくまで自然という規範は揺るがない)
  • 類比関係によって芸術家の領域を画定… [ 神による世界(自然)の創造 ] と [ 芸術家による作品の創造 ] という類比


■18世紀終盤における近代的芸術観の成立

  • 18世紀終盤において「古典的芸術(制作)観」から「近代的芸術(創作)観」へのゆるやかな変遷が見受けられる
  • 古典的芸術(制作)観においては「原像 - 模像」が基本理念であり、原像の価値的優位(原像=オリジナルとは「神」が創造したもの、あるいは自然)を前提としてそれを「模倣(ミメーシス)」する限りで制作がなされる
  • 近代的芸術(創作)観へと移行する過程で、模像は徐々に自立・自律したものと見なされるようになり、それは制作者(作者)の存在を差ししめすようになる
  • 近代的芸術(創作)観においては「作者(天才)- 作品 - 享受者」が基本理念であり、天才という個人自立性・自律性独創性の「表現」として作品という世界が開かれる


■カントとシェリングにおける「自然との調停」

  • カントとシェリングは、自然と「 Kunst(独):art(英)」[ 技術、技巧、人工、人為 ] とが対立するものであるという前提を認めたうえで、なおそれらの調停をもくろむ:それらの共通接点としての「芸術作品」という理念
  • 人為的なものでありながらも「非機械的」なもの(人間精神の無限性の証左)としての芸術作品という理念
  • 天才的な作者の表現意図というものを認めつつも、「主体における自然」(カント)あるいは「没意識的活動」(シェリング)といったキーワードで、必ずしも天才個人に還元しつくせない「無限性」(本来は神・自然にのみあてはまる概念)を作品に見てとる*1


■スミスの器楽理論

  • スミスによって1780年代に書かれたとされる文献からは近代的な器楽理論が読みとれる
  • 器楽の非模倣性すなわち歌詞やタイトルなしの純粋な楽音だけでの模倣には限界があるという考えは、むしろ肯定的に逆転されうる:器楽は極めて高度の自己完結性をそなえている(それ自体で自身の「世界」を構成している)=高度の自律性を内部に秘めている*2

*1:無限性というキーワードはちょうどドイツのロマン主義思想とも通底する。

*2:1780年代頃には「ソナタ形式」がほぼ確立していることは極めて重要である。