1967年4月4日にアテネ学芸アカデミーで行われた講演をもとに校訂された『Die Herkunft der Kunst und die Bestimmung des Denkens(芸術の由来と思索の使命)』にはハイデガーのKunst(技術・芸術)についての考えが端的に述べられている。
- 作者: マルティンハイデッガー,Martin Heidegger,関口浩
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2013/11/12
- メディア: 単行本
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本書の第5論文として収められている当該テキストについて、その全体は大きく3つの部分に分けられる。
- 古代ギリシャにおけるテクネー(技術・芸術)論
- 科学と方法に裏付けられた近現代の社会と私たち
- 思索しつづけることの必要性
◆ ◆ ◆
テクネー論は次のように開始される。
テクネーという語は一種の知を名指している。それは作ることや製造することを意味するのではない。この知は、造形物や作品を制作するさいに不可欠なものをあらかじめ看取することを意味する。作品は、学問の、哲学の、詩作の、弁論の作品でもありうる。(…)テクネーとしての芸術はある種の知にもとづくのであり、そしてそのような知が、形態を - 指示し、尺度を - 与えるが、いまだ目に見えないもの、――このものはようやく作品において目に見え、耳に聞こえるようにされることになるのだが――をあらかじめ看取する[vorblicken]のである。(※太字処理は以降筆者による)
そうして現実のものとなる作品の形を形づくるその輪郭について話が進む。
限界はものの輪郭や枠にすぎぬのではなく、そこでなにかが終わっていまうところにすぎぬのでもない。限界とは、それによってなにかがその固有なものへと集められるようなものなのである。かくして限界からそのなにかはそれに固有なものに満たされて出現する。すなわち現前性[Anwesenheit]のうちへと現れ出る[hervorkommen]。
ハイデガーはここで「ものの存在の様相」を描きだそうとしているようにみえる。それは現実・現存・実存という観点から真の存在の相を記述しようとするものである。いずれにせよここまでの話は次のようにまとめられるだろう。
人間の行為はそのようにして明らかに看取されたものを作品という目に見えるものへと生み出す[hervorbringen]のである。
◆ ◆ ◆
テクネー論の後半は「ピュシス」*1との関連のうちに述べられる。まず、ピュシスとは何か?
ピュシスとは、それ自体からそれのそのつどの限界のうちへと立ち現れてくるもの[Aufgehende]、そしてそのうちにとどまる[verweilen]ものなのである。
こう述べたうえで、人間ではなくピュシスの優位のうちに芸術が発現したのだとハイデガーは考える。
世界の全体がそれ自体をピュシスとして人間に言い渡し[zusprechen]、そして人間をそのピュシスの語りかけ[Anspruch]のうちに受け入れた、ここ、ギリシアでのみ、人間の聞くことと行いとは、ただちにその語りかけに応答することができたし、応答せざるとえなかった――それまでになお出現していなかった世界を作品として出現[erscheinen]させることになるものを、自分自身から、自分自身の能力にもとづいて、現前性へともたらすということを迫られるやいなや。
けっして人間という要因を否定するわけではないが、かといって作品はピュシスなくしては存在しえないのである。
人間の制作プロセスはピュシスへの応答として述べられる。ハイデガーはここで人間が主体となるような表現を巧みに避けている。
テクネー論の最後は次のように締めくくられる。
芸術はピュシスに応答するが、しかしそれはすでに現前しているものの模造でも模写でもない。ピュシスとテクネーとは秘密に満ちたしかたで共に属しあっている。しかし、ピュシスとテクネーとが共に属しあう領域と、芸術が芸術としてその本質において存在するものとなるために関与しなければならない領域とは、依然として伏蔵されたままである。
ハイデガーは古典的な芸術理論であるミメーシス*2の理念をここではっきりと排除する。
そのうえで、ピュシス[自然]とテクネー(技術・芸術)の共通部分[あるいは応答関係]と、いわゆる芸術の本質とはいまだ謎に包まれたままだと述べる。このあたりの記述は簡潔ながらも(はっきりいって)錯綜しており、またどうにも思わせぶりな書きぶりだが、意図としてはおおよそ、自然と芸術との応答関係にこそハイデガーが思索しつづける存在の謎(神秘)のエッセンスが隠されているといったようなものだろうか。芸術――ハイデガーにおいては詩作がその代表であるが――についての思索が存在への思索につながるというハイデガーの基本的立場がここに表明されているとも考えられるだろう。ヘルダーリンの詩作に導かれて存在への思索の道を歩むハイデガーにとって芸術は外せないものなのである。
ページを変えて本著作の最終場面をみていきたい。