趣味愉楽 詩酒音楽

人文系の書籍やクラシック音楽にまつわるエッセイ集

モーツァルトのピアノ・トリオ集

 モーツァルトのピアノ・トリオのほとんどはウィーン時代に書かれた。

Mozart: Piano Trios [SACD]

Mozart: Piano Trios [SACD]

 これらピアノ・トリオ作品は、いずれも作曲者独特の底知れぬ暗さや絶望的なまでの畏怖の念などとは無縁であり、明朗清澄な歌がゆったりとして実に健康的である。それはただただ無邪気な愉悦の時である。

シベリウスのヴァイオリン小品集

 協奏曲にとどまらない、シベリウスのヴァイオリン作品の魅力を存分に伝える好演。

Sibelius: Humoresques / Serenades pour violon et orchestre

Sibelius: Humoresques / Serenades pour violon et orchestre

 自然体でいながら飽かず、何度でも聞きたくなるシベリウスの音楽を象徴する良盤。

近年のペルトの合唱作品

 タイトルの《アダムの哀歌》のほか、《サルヴェ・レジーナ》や《エストニアン・ララバイ》など、合唱と弦楽オーケストラによる、アルヴォ=ペルトの近年の作品の数々。

Adam's Lament

Adam's Lament

 弦楽の響きの上に、緊張感と崇高をたたえた合唱がうちすえられる。随所にあらわれるユダヤ旋法はなおいっそう永遠の響きを予感させる。
 アルヴォ=ペルトの描く音楽は現代人に1つの神話的世界を垣間見させる。この地上の私たちと超越的な存在との関係性の神秘を突きつけるように思えてならない。

リルケ:ドゥイノの悲歌(第9悲歌)

 リルケの『ドゥイノの悲歌』の「第9悲歌」はこの詩作全体の頂点を成す。

【第1連から】

つかのまのこの存在をおくるには
(・・・)なぜに
人間の生を負いつづけねばならぬのか


【第2連から】

あらゆる存在は一度だけだ、ただ一度だけ。一度、それきり。そしてわれわれもまた一度だけだ。くりかえすことはできない。しかし、
たとい一度だけでも、このように一度存在したということ、
地上の存在であったということ、これは破棄しようのないことであるらしい。


【第3連から】

ああ、しかし地上の存在の後に来るあの別の連関へは
何をわれわれはたずさえて行けよう?
(・・・)
たから、たぶんわれわれが地上に存在するのは、言うためなのだ。家、
橋、泉、門、壺、果樹、窓――と、
もしくはせいぜい円柱、塔と……。しかし理解せよ、そう言うのは、
物たち自身もけっして自分たちがそうであるとは
つきつめて思っていなかったそのように言うためなのだ。


【第4連から】

この地上こそ、言葉でいいうるものの季節、その故郷だ。
されば語れ、告げよ。


 リルケの詩作(思索)は20世紀の現代思想を先取りしているようにも見える。

ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

リルケ:ドゥイノの悲歌(第8悲歌)

 リルケ『ドゥイノの悲歌』の「第8悲歌」の第1連の最後には次のようにある。

わたしたちはいつも被造の世界に向いていて、
ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ、
しかもわたしたち自身の影でうすぐらくなっている反映を。または、物言わぬ動物が
わたしたちを見あげるとき、その眼は静かにわたしたちをつらぬいている。

 
 リルケの詩作には神話的なモチーフとともに「世界」や「存在」といったキーワードが出現する。それはハイデガーへ通ずる道であるようにも見えるし、あるいは源泉はヘルダーリンなのかもしれない。

 以下、同「第8悲歌」より第1連の全文。

すべての眼で生きものたちは
開かれた世界を見ている。われわれ人間の眼だけが
いわば反対の方向へ向けられている。そして罠として、生きものたちを、
かれらの自由な出口を、十重二十重にかこんでいる。
その出口の外側にあるものをわれわれは
動物のおももちから知るばかりだ、おさない子供をさえも
わたしたちはこちら向きにさせて
形態の世界を見るように強いる。動物の眼に
あれほど深くたたえられた開かれた世界を見せようとはしない、死から自由のその
 世界を。
死をみるのはわれわれだけだ。動物は自由な存在として
けっして没落に追いつかれることがなく、
おのれの前には神をのぞんでいる。あゆむとき、
それは永遠のなかへとあゆむ、湧き出る泉がそうであるように。
われわれはかつて一度も、一日も、
ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る
純粋な空間に向きあったことがない。われわれが向きあっているのは いつも世界だ。
けっして「否定のないどこでもないところ」―――たとえば空気のように呼吸され
無限と知られ、それゆえ欲望の対象とはならぬ純粋なもの、
見張りされぬものであったことはない。幼いこと
ひとはときにひそかにそのほとりへ迷いこむ、と手荒に
揺すぶり醒まされる。また、あるい人は死ぬときにそれになりきっている。
なぜなら死に臨んでひとの見るものはもはや死ではなく、
その眼はずっと遥かを見つめているのだから。おそらくはつぶらな動物の眼で。
愛の人々も、もしその視線をさえぎる愛の相手がいなければ
それにちかづく、そして驚歎の眼をみはる……
ふとしたあやまちからのようにそれがその人々に開かれるのだ、
愛の相手の背後に……。しかし誰もその相手を
乗り越えてすすみはしない。そして閉ざされた世界がふたたびかれらの前に立ちふ
 さがる。
わたしたちはいつも被造の世界に向いていて、
ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ、
しかもわたしたち自身の影でうすぐらくなっている反映を。または、物言わぬ動物が
わたしたちを見あげるとき、その眼は静かにわたしたちをつらぬいている。
運命とはこういうことだ、向きあっていること、
それ以外のなにものでもない、いつもただ向きあっていること。

ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)