古い録音だがまったく色あせない。
- アーティスト: ビルスマ(アンナー),バッハ
- 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックレコーズ
- 発売日: 1999/09/22
- メディア: CD
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チェンバロ・オルガンにレオンハルトがいれば、チェロにはビルスマがいる。
古楽演奏の黎明期においてすでに堂々たる構え。音楽は無理なく自然に、悠々と流れる。
古い録音だがまったく色あせない。
チェンバロ・オルガンにレオンハルトがいれば、チェロにはビルスマがいる。
古楽演奏の黎明期においてすでに堂々たる構え。音楽は無理なく自然に、悠々と流れる。
モーツァルトのピアノ・トリオのほとんどはウィーン時代に書かれた。
これらピアノ・トリオ作品は、いずれも作曲者独特の底知れぬ暗さや絶望的なまでの畏怖の念などとは無縁であり、明朗清澄な歌がゆったりとして実に健康的である。それはただただ無邪気な愉悦の時である。
協奏曲にとどまらない、シベリウスのヴァイオリン作品の魅力を存分に伝える好演。
Sibelius: Humoresques / Serenades pour violon et orchestre
自然体でいながら飽かず、何度でも聞きたくなるシベリウスの音楽を象徴する良盤。
タイトルの《アダムの哀歌》のほか、《サルヴェ・レジーナ》や《エストニアン・ララバイ》など、合唱と弦楽オーケストラによる、アルヴォ=ペルトの近年の作品の数々。
弦楽の響きの上に、緊張感と崇高をたたえた合唱がうちすえられる。随所にあらわれるユダヤ旋法はなおいっそう永遠の響きを予感させる。
アルヴォ=ペルトの描く音楽は現代人に1つの神話的世界を垣間見させる。この地上の私たちと超越的な存在との関係性の神秘を突きつけるように思えてならない。
リルケの『ドゥイノの悲歌』の「第9悲歌」はこの詩作全体の頂点を成す。
【第1連から】
つかのまのこの存在をおくるには
(・・・)なぜに
人間の生を負いつづけねばならぬのか
【第2連から】
あらゆる存在は一度だけだ、ただ一度だけ。一度、それきり。そしてわれわれもまた一度だけだ。くりかえすことはできない。しかし、
たとい一度だけでも、このように一度存在したということ、
地上の存在であったということ、これは破棄しようのないことであるらしい。
【第3連から】
ああ、しかし地上の存在の後に来るあの別の連関へは
何をわれわれはたずさえて行けよう?
(・・・)
たから、たぶんわれわれが地上に存在するのは、言うためなのだ。家、
橋、泉、門、壺、果樹、窓――と、
もしくはせいぜい円柱、塔と……。しかし理解せよ、そう言うのは、
物たち自身もけっして自分たちがそうであるとは
つきつめて思っていなかったそのように言うためなのだ。
【第4連から】
この地上こそ、言葉でいいうるものの季節、その故郷だ。
されば語れ、告げよ。
リルケの詩作(思索)は20世紀の現代思想を先取りしているようにも見える。