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und es sahe der achtsame Mann das Angesicht des Gottes genau...

テクネーという語について

 眼の前にお気に入りのペンが、ある。テーブルの上には水の入ったグラスが、ある。何かがそこに、ある。けれども、「ある」、この「存在している」ということ[Sein]それ自体を主語としてとらえたときに、我々はそれ以降記述する言葉を日常的には持ちあわせていないことに気づかされる。(だって私の目の前にそれはあるのだから、これ以上なにをつけ加えろというのか!?)
 ギリシャ古典時代からの思索の道の根源にあるものの1つが「《ある》ということ、そのものの衝撃」だった。なぜ「なにもない」のではなく、何かが《ある》のだろうか。
 20世紀を生きたハイデガーにおいても、入口は神学だったとはいえ、状況はさほど変わらなかった。《ある》というこの摩訶不思議な神秘について、彼のつむぐ言葉は道なき道を歩むことになる。

 ハイデガーの著作である『芸術作品の根源』のもととなった講義が行われた1935年と同じ年に行われた講義『形而上学入門』において彼はこう語る。

techneは芸術でも熟練でもなく、ましては近代的な意味での技術などを意味しない。われわれはtechneを「知」と訳す。(中略)知とは、真正なtechneの意味においては、そのつどちょうど眼の前に既にあるものを超えて元初的に存続的に見越すということである。この超えてあるということが、目の前に既にあるものに対して初めてそれの相対的な権利とそれの可能的な非規定性と、したがってまたそれの限界とを与えるようなもの、そういうものをいろいろな仕方で、いろいろな軌道上で、いろいろな領域内で、前もって作品へと置く。知とは、存在をそのつどしかじかの存在者として作品-へと-置き-うるということである。本来の意味での芸術と芸術作品とをギリシア人が特に強調してtechneと呼ぶのは、芸術が存在すなわち自己においてそこに立っている現象を、最も直接的に一つの現存者(つまり作品)の中で立つことへともたらすからである。芸術の作品が作品である第一の理由は、それが製作せられ作られているからではなく、それが或る一つの存在者の中で存在を成就しているからである。成就するとはこの場合、作品へともたらすことであり、現象[erscheinen]するものとしてこの作品の中で、そこを支配している発現、すなわちphysisが、光る[scheinen]ことへと到来するのである。存在している存在としての芸術作品を通して初めて、その他の現象するものや眼の前に見えているものなどのすべてが存在者として、(中略)解釈も理解もできるものになる。

 ハイデガーにおいては芸術の中でも特に詩が特権的な地位を占めるようになる。1930年代ごろからヘルダーリンに傾倒していったことはよく知られている。詩の言葉こそが、存在の内奥に触れる唯一の手がかりになるというわけである。

芸術は一つの特異な意味で、存在を作品の中で存在者として存立と現前とへともたらすゆえに、芸術は端的に、作品-へと-置き-うること、つまり、techneだと考えられてもかまわないことになるのである。作品-へと-置くとは、存在を存在者の中で開示して成就することである。このような優れた、成就する開示と開けたままにしておくことと、これがである。知の激情が問うということである。芸術は知であり、そしてそのゆえにtechneである。芸術がtechneであるのは、それを成し遂げるのに「技術的」な熟練や仕事の道具や仕事の材料が必要だからなのではない。

 訳がいまいちだというのは否めない。

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)