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人文系の書籍やクラシック音楽にまつわるエッセイ集

ハイデガーの現象学の基本的立場

 熊野純彦の訳による『存在と時間』(岩波文庫)には簡潔明瞭な梗概が付されてある。

 序論の第7節において、ハイデガーは自身が採用する「現象学」という思索の方法論について述べる。ハイデガーによれば、現象学という語は「現象」と「学」とに分けられ、それぞれギリシャ語で「ファイノメノン」と「ロゴス」とにさかのぼることができるという。この節は梗概では次のようにまとめてある。 

存在と時間』によれば、哲学一般の「基礎的な問い」は存在の意味への問いであって、その問いを探究する「方法」は「現象学的」なそれにほかならない。(…)ファイノメノン、つまり「現象」とは、「自分を示すもの」「あらわなもの」を意味する。(…)より正確には「じぶんをじぶん自身にそくして示すもの」にほかならない。ロゴスとは「語り」であり、「語りにおいて語られているもの」を「あらわにすること」である。(…)ロゴスは、語られているものを「語られているものの側から」「見えるようにさせる」ことにほかならない。さらには、「真理」を語ることとしてのロゴスとは、語られているものをその「隠されたありかた」から引きだして、アレーテスつまり「隠れていないもの」とすること、「覆いをとって発見すること」なのである。

 ハイデガーの思索の基本スタンスはここに宣言されているといってもさしつかえないとおもう。
 根底にあるのは、主観客観という二分法の拒否である。あるいはその主観の優位(絶対性)への抵抗である。*1
 梗概はこのあとさらにこう続く。

かくて「現象学」とは、「アポファイネスタイ・タ・ファイノメナ」、つまり「じぶんを示すものを、それがじぶんをじぶん自身の側から示すとおりに、じぶん自身の側から見えるようにさせること」である。現象学の標語「ことがらそれ自身へ!」の意味も、このことにほかならない。

 いきなりハイデガーの他の著作を読んでもさっぱり意味がわからない。やはり基本が大事である。

*1:木田元によれば、それは西洋近代的な「人間中心主義」に対するある種のアンチテーゼ、代替案であるとのことである。しかしその人間中心主義の相対化ともいえる精神的な文化革命を人間が主体的に行うという自己矛盾のうちに、ハイデガーの思索はさらに神話的、神秘主義的な装いをともなうこととなる。(いわゆる「後期」の思索)