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und es sahe der achtsame Mann das Angesicht des Gottes genau...

ハイデガーの真理観

 真理 [Wahrheit]とは何か?
 真理についての「対応説」と「明証説」を考えてみたい。

 対応説において真理とは「認識内容とその対象との一致」を指す。たとえば、この筆記具をボールペンだと認識することとその筆記具が実際にボールペンであるということ、これらの一致が「真理」である。これが真理の対応説である。そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、ボールペンだと思っていたものが実はシャーペンだった(仮象)ということも現実にはあるわけで、このようにして対応説はいわゆる主観と客観の一致を真理と見なすのである。
 
さて一方の明証説において真理とはまさにその「当たり前のこと」である。すなわち「明らかにして疑いえないこと」を真理とするのが真理の明証説である。デカルトの「われ思う故にわれあり」などがその典型である。誰も否定しえないことを真理と見なすわけである。とはいえこの明証説はいったい何を示しているのか?「AはAである」と言っているに過ぎないのではないだろうか?

 「芸術作品」について考えてみたときに、では「対応説」は何を示すだろうか?
 フェルメールのかの有名な『牛乳を注ぐ女』の絵について、人は「女性が牛乳を器に注いでいる」と認識し、実際にその絵の客観的内容は「牛乳を器に注いでいる女性」である。こうして主観と客観が一致し、真理は成立する。しかしこの対応に果たして実際のところ意味はあるのだろうか?

 『存在と時間』第44節においてハイデガーは真理の「明証説」を採用することを述べる。これは彼の現象学の理解とも密接に結びついている。

言明が真であるとは、言明が存在者をその存在者自身にそくして覆いをとって発見していることを意味する。言明は存在者をその覆いをとったありかたにおいて言明し、提示し、「見えるようにさせる」[アポファンシス]。言明が真であること(真理)とは、覆いをとって発見しつつあることと解されなければならない。真理はこうして、一方の存在者(主観)が他方の存在者(客観)に同化するという意味における、認識作用と対象との一致という構造などまったく有していないのである。

 目の前の絵の内容と私たちの認識が合致することが作品本来の目的なのだろうか。その絵に即してその絵の語るままに耳を傾けることも作品の楽しみの1つである。
 真理の対応説は対象という客観的な裏付けを絶対の要素とする。しかしその結果として得られた真理が果たして我々に本当に有意義なものであるかどうかはまた別の問題である。そもそも作品は何かを裏付けるためのものではあるまい。真理の明証説はハイデガーにおいて見られるような存在論現象学において新たな視点をもたらすように思えるのである。