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リルケ:ドゥイノの悲歌(第8悲歌)

 リルケ『ドゥイノの悲歌』の「第8悲歌」の第1連の最後には次のようにある。

わたしたちはいつも被造の世界に向いていて、
ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ、
しかもわたしたち自身の影でうすぐらくなっている反映を。または、物言わぬ動物が
わたしたちを見あげるとき、その眼は静かにわたしたちをつらぬいている。

 
 リルケの詩作には神話的なモチーフとともに「世界」や「存在」といったキーワードが出現する。それはハイデガーへ通ずる道であるようにも見えるし、あるいは源泉はヘルダーリンなのかもしれない。

 以下、同「第8悲歌」より第1連の全文。

すべての眼で生きものたちは
開かれた世界を見ている。われわれ人間の眼だけが
いわば反対の方向へ向けられている。そして罠として、生きものたちを、
かれらの自由な出口を、十重二十重にかこんでいる。
その出口の外側にあるものをわれわれは
動物のおももちから知るばかりだ、おさない子供をさえも
わたしたちはこちら向きにさせて
形態の世界を見るように強いる。動物の眼に
あれほど深くたたえられた開かれた世界を見せようとはしない、死から自由のその
 世界を。
死をみるのはわれわれだけだ。動物は自由な存在として
けっして没落に追いつかれることがなく、
おのれの前には神をのぞんでいる。あゆむとき、
それは永遠のなかへとあゆむ、湧き出る泉がそうであるように。
われわれはかつて一度も、一日も、
ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る
純粋な空間に向きあったことがない。われわれが向きあっているのは いつも世界だ。
けっして「否定のないどこでもないところ」―――たとえば空気のように呼吸され
無限と知られ、それゆえ欲望の対象とはならぬ純粋なもの、
見張りされぬものであったことはない。幼いこと
ひとはときにひそかにそのほとりへ迷いこむ、と手荒に
揺すぶり醒まされる。また、あるい人は死ぬときにそれになりきっている。
なぜなら死に臨んでひとの見るものはもはや死ではなく、
その眼はずっと遥かを見つめているのだから。おそらくはつぶらな動物の眼で。
愛の人々も、もしその視線をさえぎる愛の相手がいなければ
それにちかづく、そして驚歎の眼をみはる……
ふとしたあやまちからのようにそれがその人々に開かれるのだ、
愛の相手の背後に……。しかし誰もその相手を
乗り越えてすすみはしない。そして閉ざされた世界がふたたびかれらの前に立ちふ
 さがる。
わたしたちはいつも被造の世界に向いていて、
ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ、
しかもわたしたち自身の影でうすぐらくなっている反映を。または、物言わぬ動物が
わたしたちを見あげるとき、その眼は静かにわたしたちをつらぬいている。
運命とはこういうことだ、向きあっていること、
それ以外のなにものでもない、いつもただ向きあっていること。

ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

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