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人文系の書籍やクラシック音楽の紹介を中心としたエッセイ集

読書録:故郷(太宰治)

 太宰治の『故郷』*1は、原稿用紙30枚くらいの短編の私小説である。
 筋書きは非常に明快である。東京で妻子と暮らしている私は母危篤の知らせを受け、長らくお世話になっている恩人の助けを借りて青森の実家へと帰省する。私は勘当の身であるがゆえに気まずい思いをしつつも、母と再会することができ、また、集まってきていた祖母や叔母、姪などの親族とも交流を深める。しかし母の容体は思わしくなかった。長兄、次兄、私、長姉は夕食後、それぞれ示しあわせるでもなく母の病室の隣の小部屋に一人また一人と集まってくるのであった。

全体の作り

:恩人である北さん、中畑さんから母危篤の知らせを受け、妻子とともに帰省を開始する。
:北さん、中畑さんの助けを借りつつ実家に入り、母と対面する。
  また、親族と話しているうちに、危篤を知らせる兄からの速達が行き違いになっていたことを知る。
:母の容態が悪化し、私の心は乱れ、激しく葛藤し、離れの洋室へと逃れる。
:兄や北さんとの夕食を済ませた私は、北さんを見送る。夕食後、兄弟たちはひっそりと全員集合する。

卓越した全体構成

 起承転結の「転」の部分へは、筋書き全体のちょうど三分の二あたりで到達する。これは偶然では、なかろう。考えつくされたうえでの比率であろう。
 また、の間には小休止とでも言える場面がある。心乱れに乱れた私は、誰も近寄らない離れの洋室へと避難し、そこで夕方まで居眠りする。そこへ妻がやってくる。これは全編を通じて唯一の夫婦二人きりの場面である。青森の実家でそれぞれに気まずい思いをしている二人が、少し肩の力を抜いて夫婦で話をするのである。してみると起承転結という五部分構成ともとれる。
 

登場人物の多寡と場面展開

 起承と話が進むにつれ登場人物は次第に増えていき、全編の折り返し地点あたりで人物は最も多くなる(祖母、叔母、姪、嫂、親戚のおばあさん等々全員あわせると20名を超える。)が、となって私の心は大きく動揺し、洋室へと避難し、ここで場にいる人物は私ひとりとなる。そして居眠りによって幾分落ち着きを取り戻したころ、妻がやってくるわけである。転から休へ、心情のうねりと人物多寡が連動する、実に巧みな場面展開である。
 最終場では、北さんを見送って、私ひとりになった後、母の病室の隣の小部屋に次兄が座っているのを見て同席し、ほどなくして長兄も合流し、ふと気がつくと長姉も後ろに座っていた、といった描かれ方で話が終わる。20数名の登場人物がいるなかで、最終場面の人物として選ばれたのは長兄、次兄、私、長姉の4人。作中に出てくる兄弟姉妹の全員である。無言の兄弟集結、これもまた憎い。一人また一人と集まっていく様もまた実に憎い。

参照される古典

 この作品には少なくとも2つの古典的題材が参照対象となっている。
 ルカ福音書新約聖書の「放蕩息子のたとえ話」と近松門左衛門の「冥土の飛脚」(浄瑠璃)である。どうも単なる帰省話ではないらしい。

放蕩息子のたとえ話

 第14段落には次のようにある。

聖書にある「蕩児の帰宅」を、私はチラと思い浮べた。

 聖書に出てくる数多のたとえ話のなかでも、放蕩息子の話はとりわけ有名である。勤勉な兄とは対照的に、弟はごくつぶしで、父にせびって得た金を浪費した挙句、父のもとへ戻ってくる。父は、弟を許すどころか、むしろ弟の帰省を歓迎し、宴を開くという話である。*2
 本作においては父=長兄ということになろう。主人公である私は、家父長たる長兄から未だ許しを得られているわけではなかった。いわゆる勘当中であった。
 夕食の場面を描く第41段落において私の心の内は次のように描かれている。

私は腕をのばして、長兄にも次兄にもお酌をした。私が兄たちに許されているのか、いないのか、もうそんな事は考えまいと思った。私は一生ゆるされる筈はないのだし、また、許してもらおうなんて、虫のいい甘ったれた考えかたは捨てる事だ。結局は私が、兄たちを愛しているか愛していないか、問題はそこだ。*3愛する者は、さいわいなる哉。*4私が兄たちを愛して居ればいいのだ。みれんがましい慾の深い考えかたは捨てる事だ、などと私は独酌で大いに飲みながら、たわいない自問自答を続けていた。

 東京でさんざんお世話になってきている恩人の北さん、中畑さんの仲介と助けのうちに帰省した私は、母の危篤という異例の状況下で、結局は、兄たちと夕食()をともにする。
 聖書の放蕩息子は救済されたが私は、はて、どうか。

冥土の飛脚

 いっぽう、近松門左衛門の「冥土の飛脚」は、いわゆる若い男女の悲恋ものである。飛脚の男(忠兵衛)は、惚れた遊女(梅川)との駆け落ちのため、配達物である大金に手をつける。とんだ御法度である。最終的に忠兵衛は刑死、梅川は仏門に入る。
 津軽平野を電車で行きながら、車窓に広がるふるさとの景色を妻に解説する私を受けて、第20段落には次のようにある。

ここがわしの生れ在所、四、五丁ゆけば、などと、やや得意そうに説明して聞かせる梅川忠兵衛の新口村は、たいへん可憐な芝居であるが、私の場合は、そうではなかった。忠兵衛がやたらにプンプン怒っていた。

 理由は、第18段落に既にある。

刻一刻、気持が暗鬱になった。みんないい人なのだ。誰も、わるい人はいないのだ。私ひとりが過去に於いて、ぶていさいな事を行い、いまもなお十分に聡明ではなく、悪評高く、その日暮しの貧乏な文士であるという事実のために、すべてがこのように気まずくなるのだ。

 
 非合法運動への参加、心中未遂、薬物中毒、大学留年(学費の浪費)あげく除籍、そして家父長の許可なく結婚。それでも食事や寝床を提供してくれる長兄次兄なのである。もちろん母の危篤という事情のなせる業ではあるが。

北さんという人

 作中で最も重要な人物は、私の恩人である北さんである。第2段落において次のように紹介される。

北さんと中畑さんの事は、あの「帰去来」*5という小説に、くわしく書いて置いたけれども、北さんは東京の呉服屋さん、中畑さんは故郷の呉服屋さん、共に古くから私の生家と親密にして来ている人たちであって、私が五度も六度も、いや、本当に、数え切れぬほど悪い事をして、生家との交通を断たれてしまってからでも、このお二人は、謂わば純粋の好意を以て長い間、いちどもいやな顔をせず、私の世話をしてくれた。昨年の夏にも、北さんと中畑さんとが相談して、お二人とも故郷の長兄に怒られるのは覚悟の上で、私の十年振りの帰郷を画策してくれたのである。

 この北さんに関して、私が非常に複雑な感情を抱いていることが作中、幾たびも、語られる。その噛みきれぬ思いたるや、作者の手腕が最も光るところである。ぜひ各々読んでみていただきたい。
 ここに引くのは、なかでもかなり明確に気持ちを述べている箇所であって、場面としてはにあたる、夫婦二人で話をしている第36段落である。

「北さんの好意は、身にしみて、わかっているさ。けれども、北さんが間にはいっているので、僕と兄さんとの仲も、妙にややこしくなっているようなところもあるんだ。どこまでも北さんのお顔を立てなければならないし、わるい人はひとりもいないんだし、――」

 そう、わるい人はひとりもいない、この私ひとりを除いては。ここでまた堂々巡りとなるのである。

 しかし、なにより本作が極めて印象的なのは、この北さんとの「予期せぬ決別じみたシーン」が描かれていることである。夕食後に北さんを送っていく第42段落である。この引用をもって筆をおきたい。

「北さん!」*6私は追いすがるように、二、三歩足を早めて、「何か兄さんに言われましたか?」
「いいえ」北さんは、歩をゆるめて、しんみりした口調で言った。「そんな心配は、もう、なさらないほうがいい。私は、今夜は、いい気持でした。文治さんと英治さんとあなたと、*7立派な子供が三人ならんで坐っているところを見たら、涙が出るほど、うれしかった。もう私は、何も要らない。満足です。私は、はじめから一文の報酬だって望んでいなかった。それは、あなただってご存じでしょう? 私は、ただ、あなた達兄弟三人を並べて坐らせて見たかったのです。いい気持です。満足です。修治さんも、まあ、これからしっかりおやりなさい。私たち老人は、そろそろひっこんでいい頃です」

*8
 
 本作は、新潮文庫から出ている中期の短編集『走れメロス』の一番最後に収められている。

*1:昭和18年1月に『新潮』にて発表された。

*2:父=主なる神の愛の深さを示すたとえ話である。道を違えても最終的に神のもとへ帰ってくるということの大切さも読み取れる。勤勉な兄はというと、もちろん面白くない。しかし父は、お前はずっと私のそばにいることができたではないかと諭す。初めから神の愛を身に受け、そのことをわかって神のもとにいる者は、むしろ幸いなのであり、後から来た者に決して嫉妬などしないというやや高度な説話である。

*3:シェイクスピアである。

*4:これも聖書の言葉である。

*5:昭和18年6月に『八雲』にて発表された。本作『故郷』よりも5か月後の発表ということになる。してみると発表の順序は逆になったということのようである。

*6:!マークが出てくるのは全編中ここだけである。

*7:文治と英治はそれぞれ長兄と次兄の名である。私は修治。

*8:ここに引いた北さんの惜別の言は、むしろこの頃の太宰の心の安寧を示しているようにも思われる。また、汚れなき純真(キリスト教的な愛と言っていいかもしれない)というモチーフは、中期の名作である『走れメロス』ですでに描かれているものでもある。いずれにしても、この北さんの台詞も、実に憎い。