ブルックナーの生涯は実に淡々としたものだが、同じく教会音楽家であるバッハの生涯も大したドラマはない。
18歳でヴァイマルの宮廷への就職を手始めに、その後はアルンシュタット、ミュールハウゼン等、しばらく勤務先を転々とする。転々とするといってもドイツの中東部エリアを出ることはない。
ちょうど二十歳の頃、1か月の休暇をとってリューベックへオルガン武者修行に行くも、勝手に4か月も休暇を延長し、戻ってから上層部にボロクソに怒られるといったやんちゃエピソードがせいぜいといったところ。
23歳のとき、ヴァイマルの宮廷に再就職し、ここには32歳まで勤務する。この時期から器楽作品やカンタータの作曲が本格化する。32歳からはケーテンの宮廷で楽長を務める。有名な器楽作品の多くがこの時期に生まれた。
そして1723年、38歳のときにライプツィヒ市に就職する。これは、町の音楽監督であり教会学校(初等中等教育施設)の先生でもあるカントル職を務めるということを意味し、日々の典礼音楽の作曲上演に忙殺されることとなるが、生来の性格ゆえか、ことあるごとに市当局と衝突した。しかし結局は1750年に65歳で亡くなるまでずっとライプツィヒで暮らすことになる。
バッハが生涯を通じて書き続けたのはオルガン、チェンバロのための作品及び教会カンタータである。30歳くらいまでの作品には斬新なハーモニーが盛りだくさんでエネルギッシュ。晩年になるにつれて角はとれて円熟はますます深みを増すが、それはそれ。若いころの作品はその時期特有のパワーに満ち満ちている。