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人文系の書籍やクラシック音楽にまつわるエッセイ集

読書録:知覚の哲学(メルロ=ポンティ)

 メルロ=ポンティのラジオ講演(1948)を全7章にまとめ上げた一冊。第6章は「藝術と知覚的世界」と名付けられ、メルロ=ポンティの芸術論の核心が簡潔に述べられている。

 第6章の主要部分を可能な限りコンパクトに見ていきたい。[・・・]は訳者補記。《・・・》及び傍線は筆者補記。

《絵画は知覚を呼びさます》
●(・・・)絵画によって、私たちは生きられた世界に否応なしに直面させられる(・・・)。
●それら《絵画の対象物》は、私たちの眼差しに「熟知した」対象という資格で抵抗なく受け入れられるのではありません。むしろ反対に、眼差しを制止し、それに問いかけ、対象の秘かな実質、つまりそれらの物質性の様態そのものを、奇妙なやり方で眼差しに伝え、そのようにして、いわば私たちの目の前に「血を流す」のです。このように、絵画は事物そのもののヴィジョンに私たちを回帰させました。

 冒頭からメルロ=ポンティ独特の言い回しが非常に印象的であるが、絵画を道しるべとして事物そのものの存在についての思索を深めていく手法としては、ハイデガーの『芸術作品の根源』がすぐさま想起される。メルロ=ポンティも本書『知覚の哲学』を展開するにあたって同様の手法を採用している。
 
 さて、それでは事物そのものへ、まさに肉薄するとはどういうことか。

《知覚することは定義することとは異なる》
●この世界において、事物からそれが現象する様態を切り離すことができない(・・・)。
●(・・・)テーブルを知覚するとき、わたしはテーブルがテーブルとしての機能を遂行する様態に無関心ではいられません。(・・・)わたしにとってのテーブルの「意味」は、現前するテーブルの様相に具現するあらゆる「些細な特徴」から創発するのです。
●(・・・)藝術作品は、それもやはり[知覚物と同じように]肉体的全体性であって、その意味が恣意的なものではありませんし、いわばすべての記号の些細な特徴に結びつき、そこに係留されている(・・・)。これらの些細な特徴によって作品の意味が観る者に顕現します。
●どんな定義もどんな分析も(・・・)作品についてわたしが行う直接的な知覚経験に取って代われません。

 私たちが生きるこの世界において、ある事物と、それがになっている様態とを、わたしは決して分離することができない。わたしにとって、具体的かつ実際的な様態なしの事物などありえないメルロ=ポンティはそのように考える。

 他方、メルロ=ポンティは近代的な芸術観にのっとり、芸術の模倣説をあっさり否定する。

《絵画は世界の模倣ではない》
●(・・・)ブラックは(・・・)、画家は「逸話的事実を再構成しようと追い求めるのではない」のであって、「絵画的事実を構成しようと努めるのだ」と書きました。したがって絵画は世界の模倣ではなく、それ自体が世界なのです。
●彼ら《画家》の目的は対象そのものを呼び出すことではなく、[絵画の外部に依存しない、絵画だけで]充足した情景を画布上に作品化する(・・・)《こと》

 神の創った原像とその模像(=作品)という前近代の作品観ではなく、作者(天才)の創造行為の結果としての作品(自律的世界)という近代的な芸術観の延長線上に、このメルロ=ポンティの記述はあるものと考えられる。

 以上が、第6章の前半である。ちなみに後半は各論として映画や文学のほか、音楽もとりあげられている。
 
 音楽論においては、19世紀的なロマン主義を拒絶する。ある意味で新即物主義であるといえるかもしれない。

《音楽について》
●音楽については、藝術が藝術以外のものに差し向けられるという想像は不可能です。雷雨や悲しみまで描写する標題音楽は例外です。*1
●音楽では、私たちが、言葉を語らない藝術に直面しているのは否定すべくもありません。だからといって、音楽が音の感覚の集積だというのでは全然ないのです。音を通じて楽句が現れるのがわかります。そして楽句のつながりのなかから楽曲全体が出現します。そしてプルーストが言ったように、[音楽を聞く経験のなかから]ドビュッシー地方やバッハ王国からなる可能的音楽の全領域を含んだひとつの世界が現れるのがわかります。
●ただ聴くほかにすべきことは何もありません。私たち自身、私たちの記憶、私たちの感情に帰る必要はありませんし、この作品をつくった人間に言及する必要もないのです。

 メルロ=ポンティの考える理想の演奏(聴取)スタイルは、おそらくはカラヤンやジョージ=セル、朝比奈隆らのそれと同じものであろう。

*1:メルロ=ポンティに限らず20世紀の哲学者が音楽について論じる際、往々にして描写的な音楽や標題音楽は議論から除外される。それはいわゆる絶対音楽の理念を前提とするからであろう。音楽ジャンルの相互関係において明確なヒエラルキーが、すなわち標題的な音楽よりも言葉によらない絶対的な音楽のほうが上位であるという序列が、暗黙裡に了解されているのである。他方で、では純粋器楽とオペラと比べると、それはもうオペラのほうが圧倒的に高級であるということになる。オペラは古典古代の演劇の末裔だからであると、こういうわけである。

読書録:国立西洋美術館 名画の見かた

 東京上野国立西洋美術館へ行ったことがある人にも、行ったことがない人にも、おすすめの一冊。

国立西洋美術館 名画の見かた

国立西洋美術館 名画の見かた

 西洋画の解説本だが、まるで常設展の学芸員ツアーに参加しているような感覚をおぼえる、非常に贅沢な入門書である。
 重要ポイントは第2章までで出尽くしているので、時間のない人はそこまで読めばエッセンスは理解できる。第3章以降は宗教画、物語画、風景画、静物画と、ジャンルごとに進んでいく。宗教画物語画といった高級ジャンルから派生した風景画静物が、それぞれ確固としたジャンルとして確立されていく過程*1もわかりやすく解説されているので、もちろん西洋美術史の解説本としても読める。
 ルネサンスバロックロココといった時代区分や印象派ジャポニズムなどの潮流は知っているけどそれ以上はあまり... という人に打ってつけの良書である。

*1:いずれも17世紀オランダにおいて確立されていったわけだが、それは(1)キリスト教世界観や古典古代といった規範の相対化や(2)中産階級の急速な拡大が主な要因として考えられる。ちなみに、風景画静物は19世紀以降、作者の自由な表現が許容される実験の場へとその性質を変えていった。宗教画や物語画は確かに荘厳高尚なジャンルだが良くも悪くも教養主義的だしジャンルの性質上、題材も決まりきっている。その点、風景画や静物画は作者のオリジナリティを最大限発揮できる自由な領域なのであった。こういった論理は音楽においても見られ、たとえば器楽ジャンルの地位向上(「歌詞」がない方がかえって意味が狭められず、自由で創造的である」)等、ヒエラルキーの下層ないし中心から少しずれたところにあるジャンルほど革新的でありえたりするのである。いずれもまさに、ある意味で近代的な・革命的な同時代的事象なのかもしれない。

読書録:カントの批判哲学

 ドゥルーズによるカントの批判哲学の読み直し。翻訳と解説は國分功一郎である。違和感のない日本語訳、そして非常にわかりやすく有用な解説が読者の理解を大いに助ける。

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

 例によって崇高論に注目したい。崇高についての解説はわずか5ページほどだが随所に魅力的な記述がある。(以下、傍線は筆者補記。)

 崇高の感情が経験されるのは、無定形なものないしは奇異な形態のもの(広大さもしくは威力)を前にした時である。

 無定形なものや奇異なものを前にして、構想力はその呈示の限界に到達する。

 一見したところ、われわれは、われわれの構想力を無力へと追いやるこの広大さを、自然対象に、すなわち、<感性的自然>に帰しているように思われる。だが、実のところ、感性界の広大さをひとつの全体にまとめ上げることをわれわれに強いるのは、理性以外の何ものでもない。この全体は感性的なものの<理念>であるが、そうであるのは、感性的なものが、その基体になるものとして、叡智的ないし超感性的な何かを有している限りにおいてのことである。*1

 こうして、一方での判定においては構想力と悟性が調和的に一致するのに対して、他方、崇高の惹起においては構想力と理性が不調和的に(逆説的に)ではあるが結びつけられる。

 構想力が、自らをあらゆる方面において超える何かによって、自らの限界に直面させられる時、それは自分自身で自らの限界を超え出る。それは(・・・)理性的な<理念>への近づきがたさを思い描くとともに、この近づきがたさそのものを、感性的自然の中に現前する何かとすることによってである。

 ちなみにカント自身は『判断力批判』第29節の「一般的注解」において、構想力と理性の不調和な一致について次のように述べている。

「構想力は、感性的なものの外では自らの支えとするものも何も見いだすことができないのだが、にもかかわらず、自らの限界の消失のおかげで、自らを無制限のものと感じる。この分離作用は、無限なものの呈示である。この呈示は、上の理由から否定的な呈示でしかありえないが、にもかかわらずそれは、魂を拡大するものなのである」。

 ドゥルーズは次のように締めくくる。

 理性だけが「超感性的な目的地」を持つのではない。構想力もまたそれをもつ。この一致においては、魂はあらゆる能力の無規定な超感性的統一性として感じられている。ほかならぬわれわれ自身が、超感性的なものにおける「集中点」としてのひとつの焦点へと関係付けられている。

 もちろんこれを人間中心主義と呼ぶこともできるだろう。のちにハイデガーも『存在と時間』において、同じ問いにぶつかることになる。

*1:この『感性的なものが、その基体になるものとして、叡智的ないし超感性的な何かを有している限りにおいて』という思考法は、実に衝撃的ではないだろうか。しかし感性界超感性界の橋渡しを目論むカントにとっては避けがたいアポリアであった。

読書録:自由の哲学者カント カント哲学入門「連続講義」

 自由という視点からみるカント入門書である。


 カントの批判哲学を中心に、宗教哲学や政治哲学も含めて、カントのエッセンスが平易な言葉で次々に明らかにされていく。非常にかみくだいた、わかりやすい表現でカント哲学全体の解説が進んでいくが、一貫して「自由」という観点からカントの思考を追っていくので全体を通して散漫な印象はまったくない。
 
 『判断力批判』(第三批判)を解説する第8章のうち、214ページには次のような一節がある。の判定の前提となる共通感覚の説明のあとに続く箇所である。(傍線は筆者によるもの。)

 思考の三つの主観的な原理の第一の原理は、「自分で考える」という啓蒙の原理でした。第二の原理は「他者の立場になって考える」社交性の原理です。人間は孤独のうちにあっては自由であることはできません。他者との関係のうちにおいてしか、真の意味での自由はないのです。その意味では社交性の原理の土台である共通感覚こそが、自由を可能にする根源的な感覚なのです。

 第三批判において、論理的にやや遊離しがちな概念である共通感覚についても、自由という観点から明快に位置づけられていて非常にわかりやすく納得できる。
 
 ちなみに、の判定については次のように総括される。(傍線は筆者によるもの。)

 伝統的な美学では、あるものを美しいと感じるのは、その対象に秩序や調和などの美がそなわっているからだと考えていました。(・・・)
 たとえばプラトンでは、美しいものは美のイデアを分有していることで美しくなるのであり、美は人間の主観性とは独立したものでした。カントの前に美学という言葉を作ったバウムガルテンですら、美というものは素材のもつ美的な完全性と、主体の側の美的な鑑賞能力の完全性の両方がそなわったときに感受されるものだと考えていました。
 これにたいしてカントは、美というものがそれを感受する人間の側にあるものであること、社会の共通感覚が人間に美という感覚を生み出させるものであることを明確に示したのです。美は対象の側にあるものではなく、それを感じる人間とその社会のうちにあることを示したわけです。それが美学におけるカントのコペルニクス的な転回です。

 西洋美学史におけるカントの意義が非常に簡潔明瞭に述べられている箇所である。*1

*1:補足として、この一節は、佐々木健一の「近世美学の展望」(『講座 美学1』東京大学出版会)を参照しながら次のように締めくくられる。『カントはこれによって近代美学を確立したのですが、それはそれまでの「個人主義、主観主義へと向かう近世美学の動向を集約し、特に<美的なもの>の概念に結晶化した」ことによってであり、「美の現象の重点を、美しいものから美しいと見る主観へと決定的に移し変え」たことによるのです。』

構想力とはなにか

 カントのいう構想力について詳しくみていきたい。

縮刷版 カント事典

縮刷版 カント事典

  • 発売日: 2014/05/29
  • メディア: 単行本

 想像力ないし構想力[Einbildungskraft]について、2014年に弘文堂より刊行された『カント事典』によれば次のとおりである。

 構想力はカントによれば、「対象を、その現前がなくても、直観のうちに表象する能力」のこと(・・・)であり、あるいは、「多様を1つの形象[Bild]へともたらす能力」(・・・)のことである。

 一言でいうと、対象となる物事についての1つのイメージを思いえがくことができる力である。それは単に「思い出す」という程度のこともあるだろうし、「諸々ひっくるめて1つにまとめあげる」というレベルのこともあるだろう。構想力のはたらきは、どうやらかなり柔軟なもののようである。

 ちなみに、古典古代以来、構想力はどのように考えられてきたのだろうか。

 カントは構想力を、受動的な「再生的構想力」と、能動的で積極的な意味を持つ「産出的構想力」に区別する。これは、構想力が、伝統的に感性と悟性の中間的能力であることに由来する。
 アリストテレスは『デ・アニマ』において、想像力(・・・)は、知覚とも思惟とも異なるとする。想像力は、知覚なしには見いだすことができないし、また思惟は、想像力なしには見いだすことができないからである(・・・)。この中間的存在としての想像力は、トマス・アクィナスフィチーノ、ピコ・デラ・ミランドラ、さらにはヴォルフ学派に引き継がれ、これらがカントの構想力の二義性の伝統的コンテクストとなっている。

 構想力を感性のほうへ、感覚器官のほうへ包括しようとすると具合が悪い。かといって悟性のほうへ、述語付与の能力のほうへ包括することも具合が悪い。こうして構想力は感性と悟性との間にあって両者を橋渡しする役割を担うことになる。

 再び構想力のはたらきについて見ていこう。

 「再生的」構想力は、連想の法則にしたがって諸表象を結合する。「産出的」構想力は、悟性の規則に従い、カテゴリーに適合するように、諸表象を結合する。この場合、構想力が行う綜合は、悟性の感性に対する一つの作用である。構想力の「純粋」綜合、あるいは、「超越論的」綜合は、経験の可能性の一つの条件である。つまり、対象が知覚されるためにはすでに構想力が根底に働いている必要があり、あらゆる多様を取りまとめて一つの認識へともたらす可能性の条件である。

 構想力は単にイメージするだけの能力ではなく、認識を成立させるための綜合の能力も兼ね備えているということである。この点において構想力は、空想や妄想とは区別された、ひとの「認識のしくみ」という枠組みのなかに位置づけられることとなる。


 当初、カントにおいて構想力は、感性と悟性を結ぶ第三項として、認識そのものを可能にする要件の一つとして位置づけられていた。
 しかし最終的には、カントは構想力をどちらかというと悟性のほうへ引きつけて考えるようになったようである。そのことは『純粋理性批判』の第一版と第二版の比較において結論づけられる。「感性」-「構想力」-「悟性」という三要素は、「感性」-「(構想力・)悟性」という二元論へと集約されることとなったのである。

(参考)ドイツ観念論への影響

 他方、ヘーゲルはカントの産出的構想力にヒントを得たようである。

 ヘーゲルは『信仰と知』において、カントの産出的構想力を高く評価する。構想力は「第一のもの、根源的なもの」であって、そこから初めて自我と世界の多様が分岐してくる。ヘーゲルは、カントの功績を「超越論的構想力という形式のうちに真のアプリオリテートの理念をおいた」ことにあるとする。

 シェリングらも含めたドイツ観念論において、カントの産出的構想力の理念は極めて重要な論点となっていく。