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人文系の書籍やクラシック音楽にまつわるエッセイ集

読書録:三つの内なる貧しさ(エックハルト)後編

 前編においてすでにエックハルトの説話は完結しているようにみえるが、続きがある。
bachundbruckner.hatenablog.com

 以下、ひとつひとつが少し長くなるが、いずれも極めて重要な、ひと続きの意味を形成する箇所であるので抜粋しつつも断片的にならぬよう引用する。

人は、神が働くことのできる場でもなく、またそのようなどんな場をも持たないほど貧しくなければならない(・・・)。人がなお自分の内に場を保持しているかぎり、人はなお区別性を保持していることになる。(・・・)神のかの有の内に、つまり、神がすべての有を超え、すべての区別を超えているところ、そこにわたし自身はあったのであり、そこでわたしは自分自身を意志し、そしてわたしというこの人間を創造することをわたし自身の意志で認めたのである。

 エックハルトは至極の一(一者)について語る。神と私の関係性は、通常であれば二者として見るべきところ、これをあえて一者としてとらえるのである。驚愕の事態である。

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 エックハルトは当代随一の神学者であった。パリ大学やケルンの神学大学の教授職を務め、またトマス・アクィナス(1225?-1274)を輩出したことでも有名な修道会、ドミニコ会の総長代理の任にもあたっていた。
 にもかかわらず、彼は晩年に異端審問にかけられる。この異端審問騒動は教皇大司教といった当時の聖権における最高権力者レベルの人々をも巻き込み、ついに彼の生前には決着しなかった。(本人の死後、エックハルトは異端宣告を受けることになる。)
 
 無理もない。「神のかの有の内に、つまり、神がすべての有を超え、すべての区別を超えているところ、そこにわたし自身はあったのであり、そこでわたしは自分自身を意志し、そしてわたしというこの人間を創造することをわたし自身の意志で認めた」等の表現が受け入れられるわけがない。というよりこれは現代においてさえも衝撃的に過ぎる主張である。
 
 しかし、エックハルトはここからさらに思いもよらぬ飛躍を遂げる。

それゆえに、わたしの時間的生成からではなく、わたしの永遠なる有からいえば、わたしは、わたし自身の原因なのである。つまりわたしは、生まれざるものであって、わたしの不生というこのあり方からいえば、わたしが死ぬということもけっしてありえない。わたしの不生というこのあり方からいえば、わたしは永遠の過去から存在していたし、今もあるし、永遠にありつづけることになる。

 時間的無限性すなわち永遠という神の属性がそのまま「わたし」へ流入する。と同時に、すべての原因であるところの神という属性が、これもそのまま「わたし」へと流入する。わたしは、だから死ぬこともなく、生まれてもいない。そして諸物の原因(目的因)はわたしのうちに存する。

わたしの誕生というあり方によってあるものは、死ねば無に帰すであろう。それは死すべきものだからであり、時間と共に朽ちゆかざるをえないものである。私の永遠なる誕生において、すべてのものは誕生し、わたしはわたし自身とすべてのものとの原因となったのである。(・・・)わたしは、一切の被造物を超え、「神」でもなく、被造物でもなく、むしろ、わたしはわたしがあったところのものであり、今も、これからも、絶えることなくありつづけるところのものである。

 究極の目的因、すなわちすべての目的の目的因としてのわたしの永遠性へと至るこの飛躍のうちに、至極の豊かさが実を結ぶ。

この突破においては、わたしと神とが一であるということがわたしに与えられる(・・・)。そこではわたしは、一切の事物を動かす、不動の原因(・・・)である。(・・・)ここにいたって、神は精神と一であり、そしてこれこそが、人の見出すことのできる極限の貧しさなのである。

 神のみに許される属性(永遠性および究極目的因)が余すところなくわたしに与えられ、ついにわたしは一(一者)に至る。
 
 前編でのエックハルトの議論とつなぎ合わせると、こういうことだろうか。
 認識や欲求を含めた精神が限りないに満たされてゆき、この無の充満がその限界を迎えると、ついにわたしは無の底(無底)を突き破り、貧しさの極限すなわち至極の豊かさに至る。ここにおいてわたしは、その尽くしがたい恩寵のゆえに永遠性や究極目的因を分け与えられ、至純の一(一者)としてその無区別性(無限性)を、を発揮する。

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 上述のとおりエックハルトは死後に異端宣告を受けたがため、その著作物の多くは廃棄、処分され、また運よく滅失を免れたものであってもそのほとんどは日の目を見ることはなかった。
 しかし、このあまりにも充実した、衝撃的な文筆の数々である。その思索は不思議な魅力に満ちており、数少ない著作は人知れず伝承され、後のドイツ神秘主義ドイツロマン主義へと結実することとなる。

エックハルト説教集 (岩波文庫)

エックハルト説教集 (岩波文庫)

読書録:三つの内なる貧しさ(エックハルト)前編

 中世の神学者でありドイツ神秘主義の源流とも目されるエックハルト(1260-1328?)の有名な説話《三つの内なる貧しさ》をみていきたい。テーマはこの聖句である。

"Beati pauperes spiritu, quoniam ipsorum est regnum caelorum."(羅)
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"Happy are those who know they are spiritually poor; the Kingdom of heaven belongs to them!"(英)

 エックハルトはこの有名な聖句(マタイ5-3)について次のとおり宣言し、説話を開始する。

何も意志せず、何も知らず、何も持たない人、そのような人こそが貧しき人である。

 貧しさの要件は「(1)意志せず、(2)知らず、(3)持たざること」ということになるが、これはどういうことだろうか。ひとつずつ順番にみていくことにする。

何ら意志することのない人こそ貧しき人である

 第一の要件である「意志しないでいること」について、その論点となる箇所を抜き出すと次のようになる。

・最愛なる神の意志を満たそうとすることが自分の意志である、ということがその人にまだあるかぎり、このような人には、わたしたちが話そうとしている貧しさはない(・・・)。なぜならば、このような人は、神の意志を満たそうとする意志をまだ持っているからである。
・神の意志を満たそうとする意志を持ち、永遠と神とを求める欲求を持っているかぎり、あなたがたはけっして貧しいことにはならない(・・・)。なぜならば、何も意志せず、何も求めない人だけが貧しき人だからである。

 ありとあらゆる意志欲求が阻却されてこそ真に貧しいということになる。
 御言葉にかなう行いを為そうとすることは、一般的にはよいことであるが、それは本当の貧しさではないとエックハルトは考える。意志や欲求はそもそも私にとっての外的な目的因を前提とする。究極の目的因は、私の外部には存在しない。私の内部にこそすべての目的の目的因があるはずなのである。

何ら知ることのない人こそ貧しき人である

 次に、第二の要件である「知らないでいること」について、その論点となる箇所を抜き出すと次のようになる。

・自分が、自分自身のために生きることも真理のために生きることも神のために生きることもしていない、ということさえまったく知らないというように生きなければならない(・・・)。
・神が自分自身の内で生きていることを知ることもなく、認識することもなく、感ずることもないほどに、すべての知にとらわれることなくあらねばならないのである。さらにいうなら(・・・)自分の内で生きるどんな認識にもとらわれることがあってはならない。
・自分の内で神が働いていることを知ることも認識することもないほどに自由にしてとらわれることなくあらねばならない。そのときはじめて人は貧しさを所有することができるのである。

 ありとあらゆる認識が阻却されてこそ真に貧しいということになる。
 認識し、対象化することで、私はかのものにダイレクトに触れることができなくなる。たとえ極限の近さにまで及んだとしても、その距離がゼロになることは決してない。認識の対象となったものとの関係は、自由ではない。認識が働く(働いてしまう)ということは、不自由さのあらわれなのである。

何ら持つことのない人こそ貧しき人である

 そして、第三の要件である「持たないでいること」について、その論点となる箇所を抜き出すと次のようになる。ここにおいて以上二つの要件は総合的に包摂される。

・神は、神が働くことができる場を人がみずからの内に持つことを神のわざのために求めているのではけっしてない(・・・)。
・人が神と神のわざすべてとにとらわれていないとき、それを精神における貧しさという(・・・)。なぜならば、人がそれほどに貧しくなったのを神が見出すとき、そのときに(はじめて)神は神自身のわざをなすのであって、人はそのような神を自分の内に受け、かくして神が働くのは神自身のうちであるという事実から、神は神のわざの固有の場となるのである。
・人は、神が働くことのできる場でもなく、またそのようなどんな場をも持たないほど貧しくなければならない(・・・)。

 人が自らこしらえる精神的な(場所、領域)などというものは、実に大したものではない。認識欲求が阻却されるということは、もはや思うところの精神の場さえも阻却されるということである。脱我における脱我性、あるいは無私における無私性はここにおいて究極となる。
 こうして、限りない無が私を満たすことで、私は本当の意味で貧しくあるのである。

エックハルト説教集 (岩波文庫)

エックハルト説教集 (岩波文庫)

読書録:貧しさ(ハイデガー)

 1945年6月27日、ハイデガーは《貧しさ》と題された短い講演を行った。この講演への導きとなるのは、ドイツロマン主義の詩人ヘルダーリンの次の言葉である。

 我々においては、すべてが精神的なものに集中する。
 我々は豊かにならんがために貧しくなった。

 ハイデガーはこのヘルダーリン箴言を縦横無尽に読み解いていくのだが、ここではタイトルにある「貧しさ」が直接的な主題となっている箇所をみていきたい。

本当の貧しさとは

 ハイデガー貧しさについて次のように述べる。

 貧しさの本質はある〈存在〉のうちに安らっている。真に貧しく〈ある〉こととは、すなわち我々が、不必要なものを除いては何も欠いていないという仕方で〈存在する〉ことを言う。
 真に欠いているということは、不必要なものなしには〈存在〉しえないということであり、したがって、まさしく不必要なものによってのみ所持されているということである。

 敗戦直後のドイツという困窮の極限においてさえ、その貧しさは存在論の文脈で語られる。
 ハイデガーによれば、本当の貧しさとは「我々が、不必要なものを除いては何も欠いていないという仕方で〈存在する〉こと」であるという。すなわち、真に貧しくあるとき、ひとは充足し、すでに満たされてある――ただし「不必要なもの」を欠いた状態で
 熟考を要するように思われる一文であるが、この逆説をきっかけとして論点が「必要の欠如」から「不必要の欠如」へと反転する。不必要の欠如こそ真なる貧しさであるというのだ。そして「不必要なものなしには〈存在〉しえない」という表現において、ハイデガーのいう貧しさとは、ほかでもなく〈存在〉の困窮であることが示される。

不必要なものとは

 では、豊かさのために必要な「不必要なもの」とは一体何であろうか?

 不必要なものとは、必要から到来するのではないもの、すなわち強制からではなく、自由な開かれから到来するものである。
 しかし自由な開かれ[das Freie]とはいったい何であろうか。(中略)自由な開かれ(・・・)とは、無傷のもの、いたわられたもの、利用に供されないものである。「自由にする[freien]」とは、根源的かつ本来的には、保護することを通じて、あるものをその固有の本質のうちに安らわせることである。

 不必要なものは「自由な開かれ」から到来する。その「自由な開かれ」とは、「無傷のもの、いたわられたもの、利用に供されないもの」であるというが、それはすなわち「あるものがその固有の本質のうちに安らっていること」である。それは目的手段という陳腐な関係性に回収されることなく、また現在(いまこの瞬間)だけに埋没することなく、そのものの自己本質の発揮が(そのものの環境世界との相互干渉のうちに)目指されることを意図しているのであろう。*1

貧しいものは幸いである

 ヘルダーリン箴言ハイデガーの講演も、いずれもキリスト教文化に揺るぎなく根差したものである。というのも、キリスト教文化圏において貧しさと幸福*2は、ある特別な形で不可避的に結びついているからである。

 "Happy are you poor; the Kingdom of God is yours!" (Luke 6-20)

あるいは

 "Happy are those who know they are spiritually poor; the Kingdom of heaven belongs to them!"(Matthew 5-3)

 いずれも有名な聖書の言葉である。

*1:ハイデガー存在と時間》以来の彼の基本テーゼである。

*2:貧しさの反対は豊かさであり、幸福の反対は不幸であるように、それぞれ4つの項の結びつき方は必ずしも普遍的に自明というわけではない。

読書録:ハイデガーの超政治 ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い

 難解と言われるハイデガーをどのように読むべきか。その指針となる極めて重要な著作である。

 本書のテーマは、ハイデガーの提起する「存在の問い」が本来的に備えている政治性についてである。
 序論で存在の問いの意味するところが簡潔明瞭に述べられ*1、つづく第一章で「存在の問い」が元来意図する政治性が明晰に記述される。時間のない読者はここまで読むだけでも十分に得るものがあるが、ハイデガー・ナチズム論に興味のある人は第二章を、技術論国家論に興味のある人は第三章を、戦後の思索に興味のある人は第四章を読みすすめることで、本書が目論む存在の問いの政治性についての理解がより深まっていく。
 
 最終的に著者はハイデガーが1930年代を境に「転回」したという従来の見かたに異議を唱え*2、また巷のハイデガー・ナチズム論争や反ユダヤ主義論争を一蹴する。存在の問いが根源的に孕む政治性を抜きにしてなされる議論は不毛なものであり、著者は没政治的ハイデガー解釈の限界を主張するのである。
 
 全編を通じ、これほどまでに情報が整理され、要点が端的に示されたハイデガー関連本を、私はほかに知らない。本書はハイデガーの著作を読むときの確かな道しるべになりうると断言できる。
 
 ちなみに著者はすでに2017年に講談社現代新書から《ハイデガー存在と時間』入門》を発表しているが、ここに載せきれなかった内容が本書へと結実したとのことである。いずれの著作もハイデガー入門の基本書として極めて重要なものであると思われる。

*1:存在の問いの内容についての著者の読みの深さは尋常ではない。たかだか7ページほどの記述のうちにハイデガーのエッセンスが凝縮されている。

*2:著者は「転回」という語の使用によってハイデガーの思索の方向性の大転換を強調するような論調に懐疑的なのであって、思索の深まりという意味では依然として1930年代が起点であると考えていることは付記しておく。

読書録:知覚の哲学(メルロ=ポンティ)

 メルロ=ポンティのラジオ講演(1948)を全7章にまとめ上げた一冊。第6章は「藝術と知覚的世界」と名付けられ、メルロ=ポンティの芸術論の核心が簡潔に述べられている。

 第6章の主要部分を可能な限りコンパクトに見ていきたい。[・・・]は訳者補記。《・・・》及び傍線は筆者補記。

《絵画は知覚を呼びさます》
●(・・・)絵画によって、私たちは生きられた世界に否応なしに直面させられる(・・・)。
●それら《絵画の対象物》は、私たちの眼差しに「熟知した」対象という資格で抵抗なく受け入れられるのではありません。むしろ反対に、眼差しを制止し、それに問いかけ、対象の秘かな実質、つまりそれらの物質性の様態そのものを、奇妙なやり方で眼差しに伝え、そのようにして、いわば私たちの目の前に「血を流す」のです。このように、絵画は事物そのもののヴィジョンに私たちを回帰させました。

 冒頭からメルロ=ポンティ独特の言い回しが非常に印象的であるが、絵画を道しるべとして事物そのものの存在についての思索を深めていく手法としては、ハイデガーの『芸術作品の根源』がすぐさま想起される。メルロ=ポンティも本書『知覚の哲学』を展開するにあたって同様の手法を採用している。
 
 さて、それでは事物そのものへ、まさに肉薄するとはどういうことか。

《知覚することは定義することとは異なる》
●この世界において、事物からそれが現象する様態を切り離すことができない(・・・)。
●(・・・)テーブルを知覚するとき、わたしはテーブルがテーブルとしての機能を遂行する様態に無関心ではいられません。(・・・)わたしにとってのテーブルの「意味」は、現前するテーブルの様相に具現するあらゆる「些細な特徴」から創発するのです。
●(・・・)藝術作品は、それもやはり[知覚物と同じように]肉体的全体性であって、その意味が恣意的なものではありませんし、いわばすべての記号の些細な特徴に結びつき、そこに係留されている(・・・)。これらの些細な特徴によって作品の意味が観る者に顕現します。
●どんな定義もどんな分析も(・・・)作品についてわたしが行う直接的な知覚経験に取って代われません。

 私たちが生きるこの世界において、ある事物と、それがになっている様態とを、わたしは決して分離することができない。わたしにとって、具体的かつ実際的な様態なしの事物などありえないメルロ=ポンティはそのように考える。

 他方、メルロ=ポンティは近代的な芸術観にのっとり、芸術の模倣説をあっさり否定する。

《絵画は世界の模倣ではない》
●(・・・)ブラックは(・・・)、画家は「逸話的事実を再構成しようと追い求めるのではない」のであって、「絵画的事実を構成しようと努めるのだ」と書きました。したがって絵画は世界の模倣ではなく、それ自体が世界なのです。
●彼ら《画家》の目的は対象そのものを呼び出すことではなく、[絵画の外部に依存しない、絵画だけで]充足した情景を画布上に作品化する(・・・)《こと》

 神の創った原像とその模像(=作品)という前近代の作品観ではなく、作者(天才)の創造行為の結果としての作品(自律的世界)という近代的な芸術観の延長線上に、このメルロ=ポンティの記述はあるものと考えられる。

 以上が、第6章の前半である。ちなみに後半は各論として映画や文学のほか、音楽もとりあげられている。
 
 音楽論においては、19世紀的なロマン主義を拒絶する。ある意味で新即物主義であるといえるかもしれない。

《音楽について》
●音楽については、藝術が藝術以外のものに差し向けられるという想像は不可能です。雷雨や悲しみまで描写する標題音楽は例外です。*1
●音楽では、私たちが、言葉を語らない藝術に直面しているのは否定すべくもありません。だからといって、音楽が音の感覚の集積だというのでは全然ないのです。音を通じて楽句が現れるのがわかります。そして楽句のつながりのなかから楽曲全体が出現します。そしてプルーストが言ったように、[音楽を聞く経験のなかから]ドビュッシー地方やバッハ王国からなる可能的音楽の全領域を含んだひとつの世界が現れるのがわかります。
●ただ聴くほかにすべきことは何もありません。私たち自身、私たちの記憶、私たちの感情に帰る必要はありませんし、この作品をつくった人間に言及する必要もないのです。

 メルロ=ポンティの考える理想の演奏(聴取)スタイルは、おそらくはカラヤンやジョージ=セル、朝比奈隆らのそれと同じものであろう。

*1:メルロ=ポンティに限らず20世紀の哲学者が音楽について論じる際、往々にして描写的な音楽や標題音楽は議論から除外される。それはいわゆる絶対音楽の理念を前提とするからであろう。音楽ジャンルの相互関係において明確なヒエラルキーが、すなわち標題的な音楽よりも言葉によらない絶対的な音楽のほうが上位であるという序列が、暗黙裡に了解されているのである。他方で、では純粋器楽とオペラと比べると、それはもうオペラのほうが圧倒的に高級であるということになる。オペラは古典古代の演劇の末裔だからであると、こういうわけである。