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人文系の書籍やクラシック音楽にまつわるエッセイ集

ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ

 チェコ東部、モラヴィア地方の作曲家ヤナーチェクが唯一完成させたヴァイオリン・ソナタ

 弦楽四重奏曲や合唱曲(グラゴル・ミサ等)でもそうだが、ヤナーチェクにおいては、民族音楽の要素と西欧クラシック音楽の要素が見事にブレンドされており、聞きやすく、それでいて西欧旧来型の音楽に決して迎合しない、独自のスタイルが確立されている。
 もちろん、バルトークコダーイシマノフスキやエネスコなど、東欧世界の作曲家は他にも数多くいるが、圧倒的な音楽の楽しさのうちに、民族音楽の語法と西欧クラシック音楽の語法を渾然一体に融合して発展的に呈示してみせるヤナーチェクの魅力は、実に尽きせぬものがある。

読書録:ふしぎなキリスト教

 宗教社会学の立場から見るキリスト教入門である。

 日本はもとより世界的に見ても、多神教八百万の神々)こそ、この地球上で最も由緒ある、スタンダードな宗教類型である。
 にもかかわらず、現代に至るまで、世界の歴史を動かしつづけてきたのは、ユダヤ教イスラム教、そしてキリスト教といった一神教の文化圏の国々である。一神教への理解、そしてキリスト教への理解なくして、世界の動向はつかめない。

 本書では、ユダヤ教イスラム教、仏教や儒教との比較のうちにキリスト教の概要が明快に述べられている。
 キリスト教の最大の特徴は、イエスという一人の人物に集約される。イエスは、生身の人間であり、神の言葉を告げ知らせる預言者であり、救世主(メシア、メサイアないしキリスト)であり、復活に与る者であり、そして「神の子」(パウロである。パウロなくしてキリスト教はあり得なかった。
 そのほか、なぜ福音書が複数あるのか、そもそも預言者とは何者か、一時期たいへん話題になった『ユダの福音書』とはどんな書物なのか等々、キリスト教がどのようにしてユダヤ教から逸脱変質し、固有の信仰を構成するに至ったかが簡潔に述べられている本書は、やはり一読の価値あり。

読書録:アウグスティヌス 「心」の哲学者

 教父アウグスティヌス(354-430)の生涯と思索を生き生きと伝える良書である。

 キリスト教に目覚め、回心するまでのアウグスティヌスの内面や私生活は、非常にドラマティックである。
 知的好奇心の旺盛な文学青年であり、性愛と喪失にまみれた、人間味あふれる情熱的な若者は、三十二、三歳を転機に、キリスト教信仰の理論的研究(理論の精緻化)に没頭するようになる。
 
 それまで徹底的に肉欲にまみれ、当時流行していたマニ教懐疑論にさえ与していたアウグスティヌスは、どこにでもいる、いわば普通の人間である。だから、彼の苦悩は、我々の苦悩そのものなのである。
 そんな彼の回心とその後の歩みは、まさに驚異的としか言いようがない。
 
 アウグスティヌスの人生を追体験させてくれる本書は、初期キリスト教中世神学に興味のある人のみならず、西洋偉人伝に関心がある人にもうってつけの良書である。

読書録:聖書の読み方

 正典として読むにせよ、西洋古典文学として読むにせよ、およそ聖書を読むにあたっては適切な導きが必要である。

 著者は、キリスト教における共通了解である「使徒信条(信仰宣言)」を聖書読解の導きとする。
 使徒信条 Credo とは、次のとおりである。

天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は精霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者と死者を裁くために来られます。
精霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、
罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。

 著者は、これを次のとおり三部分に分けて分析する。

【A】神について
天地の創造主、全能の父である神を信じます。

【B】イエス・キリストが歩む道のりについて
父のひとり子(①先在)、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は精霊によってやどり、おとめマリアから生まれ(受肉、③誕生)、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて(④地上の生(神の国の宣教)、⑤十字架刑)死に、葬られ、陰府に下り(⑥陰府下り)、
三日目に死者のうちから復活し(⑦復活、⑧顕現)、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き(⑨昇天・高挙)、
生者と死者を裁くために来られます(⑫再臨・終末(神の国の実現))。

【C】教会の現在と未来について
精霊(⑩精霊)を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、
罪のゆるし(⑪教会の「今」)、からだの復活、永遠のいのち(⑫再臨・終末(神の国の実現))を信じます。

 この共通了解をそのまま受け入れるか否かはさておき、少なくとも聖書世界においては共通了解されているということを了解する限りで、聖書読解は初めて可能となる。
 著者は、その上で、たとえば《パウロ書簡》は⑤を、《ヨハネ福音書》は②を、《ヨハネの黙示録》は⑫を、それぞれクローズアップして各文書が成立していると指摘する。ひとくちに聖書といっても文書ごとにその色味は大きく異なってくるのである。
 
 聖書を分析的に読むとき、この視点を持ち合わせているかどうかは極めて重要である。
 じっさい《ヨハネ福音書》を他の三つの福音書と比較するとき、その力点の置き方は他と明らかに異なっている。
 なぜイエスは弟子たちの前に現れることになったのか。これについての記述が《ヨハネ》にはくりかえしくりかえし出てくるのである。いわゆる奇跡譚や人生訓のようなキャッチーな記述は薄味な一方で、イエスが我々の前に現れたことの意味についての考察が非常に濃厚なのである。
 
 キリスト教信仰においても、また正典たる聖書の各文書においても、立場はそれぞれのものがある。
 そうでありつつも、立場を超えてニュートラルな視点で聖書の読み方を提案する本書は、またとない最善の導きである。

読書録:はじめてのスピノザ 自由へのエチカ

 画期的なスピノザ入門書である。
 論点はいくつもあるが、ここではスピノザの一元論に的を絞って見ていきたい。

 筆者はスピノザ哲学を次のように要約する。

神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。
(・・・)
すべてが神の中にあり、神はすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを「神即自然」と言います。

 自然をも統べる唯一神というユダヤ教キリスト教の文化圏において、スピノザはまぎれもなく異端だった。
 スピノザのいう神とは万物を統括する神ではなく、というよりむしろ万物が唯一神そのものという議論なのである。

 詳しくみていく必要がある。
 著者は『エチカ』の第三部定理六証明を次のとおり引用する。

個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態である(・・・)、言いかえればそれは(・・・)神が存在し・活動する神の能力をある一定の仕方で表現する物である。

 スピノザにとっての実体は、ただ神だけである。本当にあると言えるのは神のみであって、ひとも、自然も、命運も、実体としての神の属性を個々に表現する様態(モード)に過ぎない。
 デカルトを強く意識して、スピノザ思惟と延長(精神と身体)という二属性を、むしろそれこそ人間の理解の限界と位置付ける。ひとは、せいぜいその二属性だけを扱えるのであって、無限に多くの属性無限に多くの様態において表現する個物(すなわち無限者であるところの絶対者:つまりは神)は実際存在すると彼は考える。
 人間の空間認識は三次元が限界であるが、現代の理論物理学における超弦理論のように世界はもっともっと高次元である。そもそも実体ですらなく、個々のモードに過ぎない我々に、どうして無限の属性が把握されうるだろうか。ひとにおいては、唯一の実体である神に、この私という様態で与ることが許容されているのみである。そしてその様態は、神の属性の一つに過ぎない。
 
 スピノザは、三十年戦争で荒廃する世界を見つめながら、何を思索したか。
 諸行無常
 救済する神はいなかった。ひとも自然も、明滅するひとつの個に過ぎない。
 しかし、それでもなおこの世界は確かに存在する。我々の理解をはるかに超えた絶対者に与っているからこそ、この世はこうして確かに存在する。
 国破れて山河在り。
 この世の地獄に立ち尽くしながら、それでも何かを信じて生きてゆかねばならない。目の前のものすべてがかりそめであったとしても、一方では、それでもなお世界を世界たらしめている限りで、絶対者は確実に存在しなければならない。

 はかない個は、一体どこからきて、どこへ向かっていくのか。
 ひとはひとであるがゆえに、その思索を止めることはできない。のちに思索の調停者となるカントからすれば、身の程を知れ、主語の想定と主語の存在を混同してはならない、ということにはなるのだろう。
 ただ、スピノザが見ていた地平は、調停者ないし観察者のカントのそれとは全く異なる。
 
 地獄の淵で、それでも何を信じうるか。
 スピノザの思索は絶望からの脱却を模索する歩みそのものでもある。