生前発表詩篇の1つである。
渓流
渓流で冷やされたビールは、
青春のやうに悲しかつた。
峰を仰いで僕は、
泣き入るように飲んだ。
ビショビショに濡れて、とれさうになつてゐるレッテルも、
青春のやうに悲しかつた。
しかしみんなは、「実にいい」とばかり云つた。
僕も実は、さう云つたのだが。
湿つた苔も泡立つ水も、
日蔭も岩も悲しかつた。
やがてみんなは飲む手をやめた。
ビールはまだ、渓流の中で冷やされてゐた。
水を透かして瓶の肌へをみてゐると、
僕はもう、此の上歩きたいなぞとは思はなかつた。
独り失敬して、宿に行つて、
女中と話をした。
(一九三七・七・一五)
「都新聞」一九三七年七月一八日
もう一つ、『在りし日の歌』より。
残暑
畳の上に、寝ころばう、
蠅はブンブン 唸つてる
畳ももはや 黄色くなつたと
今朝がた 誰かが云つてゐたつけ
それやこれやと とりとめもなく
僕の頭に 記憶は浮かび
浮かぶまゝに 浮かべてゐるうち
いつしか 僕は眠つてゐたのだ
覚めたのは 夕方ちかく
またかなかなは 啼いてたけれど
樹々の梢は 陽を受けてたけど、
僕は庭木に 打水やつた
打水が、樹々の下枝の葉の尖に
光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた
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