趣味愉楽 詩酒音楽

人文系の書籍やクラシック音楽の紹介を中心としたエッセイ集

読書録:判断と崇高 カント美学のポリティクス

 132ページのこの箇所を読んで初めて、カント崇高論の奥深さに気づいた。

美と崇高の違いについて述べた『判断力批判』の一節に戻ろう。「自然の美しいものは対象の形式に関わり、この形式は限定を旨とするが、これに反して崇高なものは、無形式な対象においても、見いだされることができる」(・・・)。この「無形式な対象においても」の「も[auch]」に注意しよう。これは、崇高がたんに無形式なものに関わっているだけでなく、逆に形式をもった対象に「も」関わっているころを示している。

 カントの『判断力批判』の直感的判断力の分析論において、崇高の分析論は単なる附録であって、その中心はあくまで美の分析論である。
 しかし、カントはそれはそれとして、崇高なものの存在領域ないし生存圏を明瞭に確保する。崇高なものは、1つの機縁として、ひとを日常の感性的世界から解き放ち、超感性的使命ないし人間精神の卓越性に触れさせる。判断力批判』の全体の論理構成上、美の分析論が主軸となる一方で、カントは崇高なものの領分をはっきりと示した。しかもそれが、美と崇高は必ずしも二項対立的なものではなく、複層的に両立しうるという形で示されていることは、注目に値する。

崇高なものについて

 カントの崇高論を詳しくみていきたい。(以下、傍線は筆者補記)

 「崇高なものが、無形式な対象においても見いだされる」とは、しかし、どのようなことなのだろうか。
 問題の一文は以下のように続いている。「つまりこの対象において、あるいはこの対象を機縁として、無限定性が表象され、しかもこの無限定性の総体がこの対象に付加されて思考される[hinzugedacht]かぎりで、崇高なものは、無形式な対象においても、見いだされることができるのである」(・・・)。注意しなければならないのは、崇高なものが「無形式な対象においても見いだされる」と言われる場合、それは「無形式な対象」そのものが崇高と呼ばれているわけではないという点である。美的判断において、感性的な対象に関して美や崇高として表出することは、構想力(想像力)の役割であるが、崇高なものの判断では、この表出能力としての構想力が、なにか無形式=不定形な対象それ自体を崇高として表出すると考えられているわけではない。厳密に言って、この対象は「機縁として[durch dessen Veranlassung]」役立つにすぎない。

 つまり、どういうことか。

 崇高として表象されると言われているのは「無限定性[Unbegrenztheit]」である。それは、もはや感性的ないし美的な対象ではない。カントの言葉に従えば、われわれの心のうちにそなわる「理性の諸理念」であり、「いかなる感性的な形式にも含まれていることはできない」(・・・)という人間の「超感性的使命」(・・・)であるとされる。カントはこれは、人間の精神能力の「品位」(・・・)や「卓越性」(・・・)とも言い換えている。要するに、崇高と呼ばれるものは、なんらかの無形の感性的対象ではなく、そうした対象の表象のうちへと崇高性を持ち込む「心構え[Denkungs-art]」(・・・)に由来するものなのであり、そうであるかぎり、感性の対象としては直接には表出されないがそれでも思考すべき何ものかとして、感性の限界を超越した「理念的なもの」や「無限なもの」(・・・)を指し示しているーーそのようにカントは考えるのである。

 まとめるとこういうことである。

 「無形式な対象」が「機縁として」役立つとは、当の対象をその総体において構想力が首尾よく表出できないという不適合、つまり呈示不可能性ないし表象不可能性が、構想力としてみずからの感性的な限界に直面させ構想力の働きを挫かせるだけではなく、そのことによってむしろ、みずからの感性的限界を超えた、なにか「超感性的」で「無限なもの」を構想力に崇高として表出させる(「ある感動的な適意」を与える)(・・・)。
 (・・・)
 いずれにせよ、ここに現れているのは、理念的なものであれ、無限のものであれ、感性的には<表出=呈示不可能なもの>を、表出の失敗やその不可能性を介して、否定的=消極的に表出しようとする、ひとつの弁証法的な論理である。
 (・・・)
 当の「無形式な対象」はまさに無形式であるがゆえに客観的には表象されることができないが、しかしその不可能性がむしろ高次の段階で<表出=呈示不可能なもの>としての超感性的な存在を喚起し、それを消極的に表象することを可能にしている。

 無形式な対象としてカント自身は大瀑布や活火山、静かな大洋そして満天の星空などの自然物を挙げる一方で、ローマの聖ピエトロ大聖堂やピラミッド、ユダヤの律法書といった人工物も列挙している。
 
 しかし、冒頭の「も[auch]」に着目してみたとき、きっかけとなる対象が静的な形式感(カントによればこれこそがである)をたたえていようと、はたまた動的な無形式的存在であろうと、構想力がその臨界を突き抜けた先に、ひとは無限や永遠といった超感性的な何かを予感する。それは理性の働きと呼応するものであり、ひとの思考はおのれを限界にまで運びゆく。


 こうして、無限なものや超感性的なものというモチーフはそのまま19世紀のドイツ・ロマン主義へと受けつがれていく。