カントのいう構想力について詳しくみていきたい。
想像力ないし構想力[Einbildungskraft]について、2014年に弘文堂より刊行された『カント事典』によれば次のとおりである。
構想力はカントによれば、「対象を、その現前がなくても、直観のうちに表象する能力」のこと(・・・)であり、あるいは、「多様を1つの形象[Bild]へともたらす能力」(・・・)のことである。
一言でいうと、対象となる物事についての1つのイメージを思いえがくことができる力である。それは単に「思い出す」という程度のこともあるだろうし、「諸々ひっくるめて1つにまとめあげる」というレベルのこともあるだろう。構想力のはたらきは、どうやらかなり柔軟なもののようである。
ちなみに、古典古代以来、構想力はどのように考えられてきたのだろうか。
カントは構想力を、受動的な「再生的構想力」と、能動的で積極的な意味を持つ「産出的構想力」に区別する。これは、構想力が、伝統的に感性と悟性の中間的能力であることに由来する。
アリストテレスは『デ・アニマ』において、想像力(・・・)は、知覚とも思惟とも異なるとする。想像力は、知覚なしには見いだすことができないし、また思惟は、想像力なしには見いだすことができないからである(・・・)。この中間的存在としての想像力は、トマス・アクィナス、フィチーノ、ピコ・デラ・ミランドラ、さらにはヴォルフ学派に引き継がれ、これらがカントの構想力の二義性の伝統的コンテクストとなっている。
構想力を感性のほうへ、感覚器官のほうへ包括しようとすると具合が悪い。かといって悟性のほうへ、述語付与の能力のほうへ包括することも具合が悪い。こうして構想力は感性と悟性との間にあって両者を橋渡しする役割を担うことになる。
再び構想力のはたらきについて見ていこう。
「再生的」構想力は、連想の法則にしたがって諸表象を結合する。「産出的」構想力は、悟性の規則に従い、カテゴリーに適合するように、諸表象を結合する。この場合、構想力が行う綜合は、悟性の感性に対する一つの作用である。構想力の「純粋」綜合、あるいは、「超越論的」綜合は、経験の可能性の一つの条件である。つまり、対象が知覚されるためにはすでに構想力が根底に働いている必要があり、あらゆる多様を取りまとめて一つの認識へともたらす可能性の条件である。
構想力は単にイメージするだけの能力ではなく、認識を成立させるための綜合の能力も兼ね備えているということである。この点において構想力は、空想や妄想とは区別された、ひとの「認識のしくみ」という枠組みのなかに位置づけられることとなる。
当初、カントにおいて構想力は、感性と悟性を結ぶ第三項として、認識そのものを可能にする要件の一つとして位置づけられていた。
しかし最終的には、カントは構想力をどちらかというと悟性のほうへ引きつけて考えるようになったようである。そのことは『純粋理性批判』の第一版と第二版の比較において結論づけられる。「感性」-「構想力」-「悟性」という三要素は、「感性」-「(構想力・)悟性」という二元論へと集約されることとなったのである。