詩人・中原中也の色彩感覚に関して、極めて印象深い詩を、1933年から1936年にかけての未発表ないし草稿詩篇から二つご紹介。
朝
かがやかしい朝よ、
紫の、物々の影よ、
つめたい、朝の空気よ、
灰色の、甍よ、
水色の、空よ、
風よ!
なにか思い出せない・・・・・・
大切な、こころのものよ、
底の方でか、遥か上方でか、
今も鳴る、失くした笛よ、
その笛、短くはなる、
短く!
風よ!
水色の、空よ、
灰色の、甍よ、
つめたい、朝の空気よ、
かがやかしい朝
紫の、物々の影よ・・・・・・
季節は、はっきりとはわからない。
一読、冬の朝にも見えるが、まだ火鉢を片付けることができない早春の朝かもしれないし、あるいは冬の訪れを予感させる晩秋の朝なのかもしれない。
ひんやりとして清廉な朝に、さまざまの色彩を見て取る詩人には、茫洋として笛の音さえも聞こえてくるが、この日の朝は、それが太陽とともに迎える明るい朝であることは間違いなさそうである。
白か黄か、陽光のまぶしさは読者にゆだねられている。季節感は、だから尚更ぼかされている。
◆ ◆ ◆
もうひとつは、無題の草稿である。
小川が青く光つてゐるのは、
あれは、空の色を映してゐるからなんださうだ。
山の彼方に、雲はたたずまひ、
山の端は、あの永遠の目ばたきは、
却て一本の草花に語つてゐた。
一本の草花は、広い畑の中に、
咲いてゐた。---葡萄畑の、
あの脣黒い老婆に眺めいらるるままに。
レールが青く光つてゐるのは、
あれは、空の色を映して青いんださうだ。
秋の日よ! 風よ!
僕は汽車に乗つて、富士の裾野をとほつてゐた。
詩仙・李白のような、漢詩的なスケールの大きさ、遠近法、それらの対比が、最終的には富士にも重ねられ、その幾重にも連なる対比構造が、この無題の草稿の構成を揺るぎなく支えている。
ブドウ畑と不健康そうな高齢の女性の姿から、私にはミレーの落穂拾いが類推惹起せられたが、いかがだろうか。
そうでなくともどこか自然主義的な装いさえ見せるこの草稿の、この何とも言えない余韻、詩情の尊さに、詩人の才はこの上なく光る。
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