趣味愉楽 詩酒音楽

und es sahe der achtsame Mann das Angesicht des Gottes genau...

だが究極では混りはしない

 未発表の詩篇の1つに《玩具の賦》というのがある。

(・・・)
俺にはおもちやが要るんだ
おもちやで遊ばなくちやならないんだ
利得と幸福とは大体は混る
だが究極では混りはしない
俺は混らないとこばつかり感じてゐなけあならなくなつてるんだ
月給が増えるからといつておもちやが投げ出したくはないんだ
俺にはおもちやがよく分つてるんだ
おもちやのつまらないことも
おもちやがつまらなくもそれを弄べることはつまらなくはないことも
俺にはおもちやが投げ出せないんだ
こつそり弄べもしないんだ
つまり余技ではないんだ
おれはおもちやで遊ぶぞ
おまえは月給で遊び給えだ
おもちやで俺が遊んでゐる時
あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だなぞと云ふのはよいが
それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは
滑稽だぞ
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ
贅沢なぞとは云いめさるなよ
おれ程おまへもおもちやが見えたら
おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから
文句なぞを云ふなよ
それどころか
おまへはおもちやを知つていないから
おもちやでないことも分りはしない
おもちやでないことをただそらんじて
それで月給の種なんぞにしてやがるんだ
それゆゑもしも此の俺がおもちやも買へなくなつた時には
写字器械奴!
云はずと知れたこと乍ら
おまへが月給を取ることが贅沢だと云つてやるぞ
行つたり来たりしか出来ないくせに
行つても行つてもまだ行かうおもちや遊びに
何とか云へるがものはないぞ
おもちやが面白くもないくせに
おもちやを商ふことしか出来ないくせに
おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに
おもちやで遊んでゐらあとは何事だ
おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ
おもちやで遊べたら遊んでみてくれ
おまへに遊べる筈はないのだ
(・・・)

 1934年の作である。「おまへ」というのはおそらく盟友の大岡昇平のことだと思われる。

山羊の歌―中原中也詩集 (角川文庫―角川文庫クラシックス)

山羊の歌―中原中也詩集 (角川文庫―角川文庫クラシックス)

ハイデガーの芸術観(1959)

 1959年6月6日にヘルダーリンの大地と天』というタイトルで行われた講演には、ハイデガーの芸術(作品)観がコンパクトにまとめられた箇所がある。
 ヘルダーリンによる書簡の一節を引用しそれを解釈しながら、ハイデガーは次のように述べる。

 芸術とは、目に見えないものを示しながら現象させることとして、最高のあり方のしるしである。そのように示す根拠と頂点は、またもや、詩作する歌として述べるなかで展開される。
 ギリシア人たちにとっては、しかし、この示されるべきもの、すなわち、それ自体から輝くものは、要するに、真実のものであり、である。それゆえ、これは芸術であり、人間の詩作する本性である。詩人として住む人間はすべての輝くもの、大地と天と神聖なものを、それ自身として存立し、すべてを保持しながら、現れて来るようにし、作品という形態で確実に存立させる。「すべてを存立させてそれ自身として保つこと」― これは創設することである。
(※太字処理は筆者による)

 創設する stiften*1 ―― これはハイデガーが好んで用いる表現である。かの有名な『芸術作品の根源』(1935/36)の終盤においても「芸術の本質は詩作である。そして詩作の本質は真理の創設[Stiftung]である。」とある。*2

ヘルダーリンの詩作の解明〈第1部門〉既刊著作(1910‐76) (ハイデッガー全集)

ヘルダーリンの詩作の解明〈第1部門〉既刊著作(1910‐76) (ハイデッガー全集)

*1:stiften 1.建てる、建設する;設立する、樹立する 2.奉納する、寄進する;寄付する;進呈する、贈る 3.造る;引き起こす、実現させる

*2:関口浩氏によればこの単語の出どころは『追想』(ヘルダーリン作)であろうということである。

ハイデガー『詩』(1968)

 1968年8月25日になされた講演を推敲したテクスト『詩』は短いながらもハイデガーの思索を余すところなく伝える。

1.詩人と神々の関係について

詩人が話すことは、示しながら、被い隠しつつ - 被いを取り除いて、
神々*1の到着を現出させるのに、必要とされるのであり、
しかも神々は、現出することで初めて神々自身であるために、
自分たちの現出のために詩人の言葉を必要とする
(※以下、太字処理は筆者)


2.神々の名を呼ぶことについて

名を呼ぶことは、叫びかけて剥き出しにすることであるとともに、包み隠すことでもある


3.述べることの本質について

述べることで、まさにただ述べることによってのみ、
述べられてはいないことを、しかも述べられてはいないこととして現出させること

 
 ヘルダーリンの詩作を存分に解釈しながらハイデガー言葉の限界を思考する。それは存在についての思索でもある。
 ハイデガーの存在への思索は、呈示(あらわれ)- 隠伏(かくれ)の相互浸透をその基本的なモチーフとしているように思える。あるいは、言葉そのものが宿命的にそなえ(てしまっ)ている本質的な語り尽くせなさや到達しえなさ、そういった言葉そのものの持つ宿世(それは人間そのものの命運でもある)へのあくなき洞察を基調としているようにも見える。

ヘルダーリンの詩作の解明〈第1部門〉既刊著作(1910‐76) (ハイデッガー全集)

ヘルダーリンの詩作の解明〈第1部門〉既刊著作(1910‐76) (ハイデッガー全集)

*1:ここでいう「神々」は特定の神なるものについて言っているのではない。まさに「3.述べることの本質について」と関連しているわけだが、「神々」という呼び名は仮のものでしかない。ハイデガーは言いえない存在の神秘について近づこうとして「神々」というワードを当てたのだと思われる。もちろんそれはヘルダーリンからの影響であることは間違いない。

The Gospel according to John

 第18章25~27節におけるペトロ。

 Peter was still standing there keeping himself warm. So the others said to him, "Aren't you also one of the disciples of that man?"
 But Peter denied it. "No, I am not," he said.
 One of the High Priest's slaves, a relative of the man whose ear Peter had cut off, spoke up. "Didn't I see you with him in the garden?" he asked.
 Again Peter said "No" --- and at once a rooster crowed.

Holy Bible: English Standard Verson, Blue, Value Pew

Holy Bible: English Standard Verson, Blue, Value Pew

ハイデガーの技術・芸術論(1967)(後)

 『Die Herkunft der Kunst und die Bestimmung des Denkens(芸術の由来と思索の使命)』(1967)の最終節においては、科学と方法の優位によって疎外されている人間性を回復するものとしての(芸術)作品が思索の鍵となるが、ハイデガーにあってその思索の根底にある問題意識は「存在という神秘(謎)」を問い続けることにほかならない。

 テクストのクライマックスは、すべてをこの世に在らしめる空間と時間の話から始まる。

いかなる空間もさまざまの事物にそれらのための場所と配置とを明け渡すこと[einraeumen]はできないだろうし、いかなる時間も生成と消滅とに年月を、すなわち延長と持続とを時熟[zeitigen]させることはできないだろう。空間と時間とに、そして両者がともに属しあうことに、両者をくまなく支配する開放性がすでに授けられていないならば。(※太字及び下線処理は以下筆者による)

 極めて異質な言い方であるが、要するに普段私たちが慣れ親しんでいる数量的な(物理的に数値処理可能な)外界把握の枠組みをいったん取り外して考えようという方向性の宣言であろう。空間と時間という座標軸をそもそも可能にしている根源的な「存在」への思索をはじめようということである。

ギリシア人の言葉は、空けたところの空け渡し[Freigabe]をア - レーテイア(※ギリシア語省略)、つまり不 - 伏蔵性[Un-verborgenheit]と名づける。この空け渡しこそがあらゆる開放的なところをはじめて許容するのである。

 空間と時間を可能にする根源的な可能性としての「存在」のことをハイデガーアレーテイアすなわち不伏蔵性と呼ぶ。訳者によっては非秘匿性や非隠蔽性などと訳したりもするが、要するに「隠されていないさま、蔽われていないさま」のことであると考えていいだろう。(※「ある」ということを「隠されていない」と表現しているのはただの言葉遊びに過ぎないようにも見えるが、この疑問は現象学の大前提に立ってみることで解消するものと思われる。当たり前に存在しているように見えるものをあえて疑うという態度こそが現象学の出発点となっているのである。)

   ◆ ◆ ◆

 こうして不伏蔵性というキーワードを導入したところで最大の難所が登場する。

不 - 伏蔵性は伏蔵性を除去するのではない。それはほとんど起こりえないことであって、開蔵すること[Entbergung]はつねに伏蔵することを要するのである。すでにヘラクレイトスがこの関係を次のような言葉で暗示している。(※ギリシア語省略、表記一部改編)

それ自体から立ち現れてくるものに固有なのは、それ自体を伏蔵することである。

(…)開 - 蔵は伏蔵に属するので、それ自体を伏蔵し、しかもこの自己脱却によって事物にその限界づけから出現する滞在[Verweilen]を許し与える。


 さて、訳者の関口浩さんは2002年に平凡社から同じくハイデガーの『Der Ursprung ded Kunstwerkes(芸術作品の根源)』を出されているが、その訳注29には次のようにある。

1934・35年の〈ヘルダーリン講義〉には次のような一節がある。「この言葉「万物は流転する」は、万物は存立することなしに変化のうちに継続する、ということを意味するのではなく、むしろ、汝はいずれか一方の側だけに固着することはできないのであって、抗争としての闘争によって反対側に運ばれるのであり、この闘いの往復運動においてはじめて存在するものはその存在をもつ、ということを意味する。流転とここで言うのは、単にとどめようもなくたえず事物が解体し滅びて行くことではなく、反対に、抗争の流転、すなわち抗争的な調和こそがまさに存立と常立性、すなわち存在を創出するのである」(GA39,S.127)

 ヘラクレイトスの最も有名な言葉についてのハイデガーの解釈である。
 30年代特有の言葉の選び方(闘争や抗争など)が異様な緊張感をはらんでいるが、1927年の『存在と時間』をはじめとしてハイデガーの根底にずっとあるのは「存在という真理=存在の有無の相互浸透」という直観であると私は考えている。
 神社でもらう「お守り」のようなものである。開けてはならないが、子供心に開けたくなる。しかし開けてもなにも無い。開けられないままでいるからそれは有(りえ)る。開けようとするとそれは逃げゆく。ひとにできるのはただその痕跡や気配を感じることだけである。その不思議な緊張のバランスが存在の神秘に通じている。


 ところで、創文社によるハイデガー全集の第4巻に収められているヘルダーリンの大地と天』というテクストのクラマックスも同じくヘラクレイトスの言葉(断片54)の解釈が鍵となる。

見えない組み立ては見える組み立てより強力である。(※ギリシア語省略、表記一部改変)


その現出を拒む組み立ては、姿を現してくる組み立てよりも高次に統べる組み立てである。( a )


( a )(…)見えるものはすべて見えないものによる―言いうるものはすべて言いえないものによる―輝くものはすべて隠れているものによるのである。隠れているものは隠れてはいないものよりもギリシア的本性の近くにいる。隠れてはいないものは隠れているものによって生きる。

 ( a )の注はハイデガー全集の原出版社(クロスターマン社)の編集者によるものである。
 (※ちなみに「組み立て」にあたる古代ギリシア語は「ハルモニア」であり、その意味は「連結」「組み合わせ」「枠組み」である。)
 
 「蔽わ-れ」の自己提示と自己解除の相互浸透というイメージがおそらく言及したい領域の近くに位置するのではという気がする。

   ◆ ◆ ◆

 原テクスト『Die Herkunft der Kunst und die Bestimmung des Denkens(芸術の由来と思索の使命)』の終盤において、ハイデガーは思索の道を提示するに留まる。

ひょっとすると、いまだ思索されないままのア - レーテイアの秘密へと目配せすることは、同時に、芸術の由来の領域を指し示すのではないか? この領域から作品を生み出すこと[Hervorbringen]への語りかけが到来するのではないか? 作品は、作品としては、人間の意のままにならないもの、それ自体を伏蔵するものを指し示してはならないのか?すでに知られ、熟知され、行われていることだけを語らねばならないのか? 芸術作品は、それ自体を伏蔵するものを黙殺してはならないのではないか? そのものこそ、それ自体を伏蔵するものとして、計画も制御も、計算も製造もなされえないものに直面して人間に畏怖の念を起こさせるのである。

 ヘルダーリンの詩作のキーワードを導き手としながらテクストはエピローグを迎える。

この地上にとどまりつつ世界に滞在すること、すなわちそれ自体を伏蔵する不伏蔵性の声[Stimme]によって規定される[bestimmen(声をかけられる)]ような住むことは、この地上の人間になお恵まれているだろうか?

われわれはそれを知らない。(※筆者としては「われわれにはそれはわからない」と訳してみたいところである。)