趣味愉楽 詩酒音楽

und es sahe der achtsame Mann das Angesicht des Gottes genau...

イザベル=ファウストによる21世紀のバッハ演奏 最前線

 イザベル=ファウストが(いわゆる)古楽奏法的アプローチを全面的に取りいれ世に送りだした逸品である。彼女特有の美音はそのままに、歌い、語る音楽である。不自然に聞こえるところは1つもない。しかし、それだけではない。

 バッハがこのソナタ*1に求めたチェンバロ通奏低音としてのそれではなく、オブリガートとして、ソロヴァイオリンと対等にわたりあうチェンバロである。おそらくファウストはそのことを他の誰よりも十分に理解した上でこの録音に臨んでいた(はずである)。
 ヴァイオリンが常に音楽を主導するというのではなく、ヴァイオリンとチェンバロがお互いに寄り添いながら音楽が展開していく。ヴァイオリンとチェンバロの語らいは実に濃密であり、名手同士の絶妙の掛け合いは余すところなく繰り広げられている。単なるヴァイオリンソナタではなく、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ、2名のソロ奏者のためのソナタであるということを改めて訴えかける演奏がそこにはある。音量バランスも巧妙に調整されており、各声部は明瞭に聞きとれる。
 ピリオド奏法か、それともモダン奏法か。ファウストはこの録音を通じて、そのような問いがいかに不毛であるかを如実に示しているように思えてならない。

*1:"6 Sonaten fü̈r Violine und Cembalo"

中也と夏

 生前発表詩篇の1つである。

   渓流


渓流で冷やされたビールは、
青春のやうに悲しかつた。
峰を仰いで僕は、
泣き入るように飲んだ。


ビショビショに濡れて、とれさうになつてゐるレッテルも、
青春のやうに悲しかつた。
しかしみんなは、「実にいい」とばかり云つた。
僕も実は、さう云つたのだが。


湿つた苔も泡立つ水も、
日蔭も岩も悲しかつた。
やがてみんなは飲む手をやめた。
ビールはまだ、渓流の中で冷やされてゐた。


水を透かして瓶の肌へをみてゐると、
僕はもう、此の上歩きたいなぞとは思はなかつた。
独り失敬して、宿に行つて、
女中と話をした。


             (一九三七・七・一五)
         「都新聞」一九三七年七月一八日

 もう一つ、『在りし日の歌』より。

   残暑


畳の上に、寝ころばう、
蠅はブンブン 唸つてる
畳ももはや 黄色くなつたと
今朝がた 誰かが云つてゐたつけ


それやこれやと とりとめもなく
僕の頭に 記憶は浮かび
浮かぶまゝに 浮かべてゐるうち
いつしか 僕は眠つてゐたのだ


覚めたのは 夕方ちかく
またかなかなは 啼いてたけれど
樹々の梢は 陽を受けてたけど、
僕は庭木に 打水やつた


   打水が、樹々の下枝の葉の尖に
   光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた

中原中也詩集 (岩波文庫)

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シェリング:芸術の哲学

 ロータル=クナッツはシェリングの『芸術哲学』を次のとおり概観する。(第6章 第3節より)

(1)芸術の哲学について

 芸術哲学は「芸術という形式ないしポテンツにおける万象の学問」あるいは「芸術という形式における絶対的世界の呈示」であって、世界のうちの芸術という特殊領域を構成することではない。絶対者の統一性は、それが分割不可能であるかぎり呈示不可能であろうから、この統一性が呈示可能になるためには諸物の差異性が必要である。「分割されざる全体がさまざまな規定のものに置かれた」ものが「ポテンツ」である。いかなる個々のポテンツも特殊な仕方で全体の統一性を表しているが、すべてのポテンツの調和がはじめて絶対的全体性へと再び送り返すのである。


(2)哲学と芸術

 哲学は絶対者を原像(Urbild)において捉えるが、芸術はそれを「対像」(Gegenbild)において呈示する。原像の同一性は絶対者においてのみ支配的であるのに対して、対像の特徴は無差別性にある。精神の構成であるかぎり対像にも自由と自律は帰属する。


(3)哲学としての芸術

 芸術哲学の哲学的構成の出発点はもはや対立する対等な諸原理をともなった超越論的自我ではなく、絶対的な統一性にして全体性としての神である。(・・・)芸術哲学も、実在(客観性、芸術)と観念(主観性、哲学)という分離された原理を哲学的構成において再統一するという課題を持っている。


(4)美的直観の特殊性

 永遠なものは芸術作品においてのみ感性的に経験可能な対象性を持つものとして呈示されるのであって、それゆえ単に知的に直観されるだけでなく客観的にも直観され得る(・・・)。


(5)哲学の対象としての芸術形式

 『芸術哲学』の体系的前提は、美的な造形においては理念の持つ普遍的なものが現れるということであるが、それにとどまらず各時代の様式の具体的で歴史的な形式もまた絶対的必然性の刻印を帯びている。さまざまな芸術形式が哲学的知の対象たりうるのは、それが普遍的理念の表現(Repräsentationen)であるかぎりにおいてである。(・・・)特殊な芸術形式に不可欠なものは「芸術の素材の構成」である。芸術作品の特殊な形式は、諸物自体が空間的時間的に具体化される際の形式に対応しなければならない。特定の形式をとった現れ方をすると同時に普遍的でもあるような特殊とは理念である。


(6)理念としての「神話」

 実在的に見るとこの理念世界は古代の神々の神話に現れている。これら神話の神々のどれも神として無限で絶対的であるが、同時に特殊な神としてこの現象形式のうちに限定されている。「特殊における絶対者の呈示としての全芸術の本質とは、一方で純粋な限定であり、他方では分割されざる絶対性である」。限定は呈示可能性の必然的な条件であり、総体としての「ギリシア神話は詩的世界の至高の原像である」。「神話は全芸術の必然的条件であり第一の素材である」。(・・・)『芸術哲学』においても、絶対者と諸ポテンツの実在的形態との間の最も重要な中間項神話なのである。


(7)神話と芸術の関係

 この神々の世界を美的なものへ取り入れることの特徴は、理性がするように神々の世界を理念的な呈示によって原像として把握するのではなく、想像力(Phantasie)を媒介として対像として呈示することにあり、「したがって想像力は芸術における知的直観である」。芸術作品におけるこのような呈示が美しいのは、絶対者が神性の像のうちに実在的なものとして直観されうる場合である。


(8)図式とアレゴリーと象徴

 理想的な芸術作品における素材の呈示は、図式(特殊が普遍によって直観される)とアレゴリー(普遍が特殊によって直観される)の総合としてつねに象徴的形式を取る(普遍と特殊とが一つである)。三つの呈示形式が一般的なカテゴリーとして理解されると、同一哲学体系における芸術の地位もまたはっきりする。それによれば、芸術(象徴的)は思考(図式的)と行為(アレゴリー的)の総合である。(・・・)神話的な神性の普遍的理念を芸術作品の特殊な形式で呈示することの可能性は、神話的な素材と芸術的な形式の総合に存する。このような総合を形成するのは「魂そのものと一つであり魂と結びついている神の内なる人間の理念」である。人間に内在するこの神的なものが天才であり、これは実在と観念とのーーすなわち造形芸術と言語芸術(文学)、美と崇高、様式と手法、素朴と情感とのーー無差別的な統一である。

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神話を思索することについて

 ジークバート=ベーツによれば、シェリングの「神話の哲学」の根本的な特徴、すなわち真理と言語に対する神話の関係は次のとおりである。

1 神話はオートポイエーシス(autopoietisch)である。神話は理念的に神を捏造したものの、それゆえ詩的主観性の産物ではなく、オートポイエーシス的な客観性が完成させたものである。神話は作られるのではなく自分自身を産み出し、自分自身の原因(causa sui)であり、それゆえ有機的な構造をなす。
2 神話は真理である。神話は有機的に編み出され、それゆえ自分自身の原因だから、完全に自己自身と一致している。
3 神話は自意的(tautegorisch, シェリングがコールリッジから借用した表現)である。神話の真理は――寓意のように――神話の外部に存在するのではなく、神話自身のなかにあるのだから、神話が意味するのは神話以外の何物でもない、すなわち自分自身である。
(第8章 第3節より)

 後期のシェリングは一なるものの思索の道を歩む。ハイデガーらへの影響は多大である。

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バッハ:ライプツィヒ・コラール集

 バッハの晩年のオルガン・コラール集である。

Leipzig Chorales

Leipzig Chorales

 バッハのトッカータやプレリュードあるいはフーガ等は、もちろんオルガン音楽の1つの頂点だが、熟練の技によって精緻に編みあげられたオルガン・コラールもまた格別である。曇りなく、よどみなく、悠々として静かにオルガンは歌う。