趣味愉楽 詩酒音楽

人文系の書籍やクラシック音楽の紹介を中心としたエッセイ集

ヘッセの詩より『炎』

 誰しも、心ざわつく日々がある。
 そんな時、ヘルマン=ヘッセの詩は、よき理解者であり、道しるべである。
 『炎』と題された短い詩は、私たちに優しく前向きに語りかけてくる。

おまえがつまらぬものの間を踊って行こうと、
おまえの心が憂いに苦しみ傷つこうと、
おまえは日ごとに新しく味わうだろう、
生の炎がおまえの中に燃えているという奇跡を。
(・・・)
だが、陰気な薄明を通ずる道を行くもの、
日々の煩いにたんのうし
生の炎をついぞ感じないものだけは、
その日々を空しく失うのだ。

 大学浪人時代にヘッセの詩に出くわしてから、もう長い年月が流れた。
 いつ読んでも、詩人は温かく迎え入れてくれる。

 『困難な時期にある友だちたちに』という詩は、達観している。

日の輝きと暴風雨とは
同じ空の違った表情に過ぎない。

 長いトンネルも、抜けてみれば、空は明るく、トンネルの長さをもはや思い出すこともない。


 

読書録:バッハ『ゴルトベルク変奏曲』世界・音楽・メディア

 一つの音楽作品を通じて、作曲家や音楽史、ジャンルや作曲技法を多角的に論ずる、音楽エッセイのお手本のような良書。

 これはバッハというよりゴルトベルク変奏曲が好きな人向けの一冊かもしれない。

 ある一曲からどれだけの論点を引き出せるかということで言えば、本書はまさにありとあらゆる音楽的なテーマについて触れている。
 バッハの人生も、17-18世紀の音楽の理論や文化も、20世紀におけるさまざまの演奏、録音、アレンジや編曲も、いずれもひとしくゴルトベルク変奏曲の世界観を構成している。一つの音楽作品は、楽音や楽譜以外の多数の文化的思想的歴史的な背景を伴いながら、ある一つの音楽的な世界そのものを呈示しているとさえ言える。

 大学のゼミナールを彷彿とさせる口語調の記述が印象的な本書は、ゴルトベルク変奏曲という音楽世界、あるいは音楽文化論へのいざないでもある。

読書録:ドイツ人のこころ

 日本人のこころのふるさとは、何だろうか。
 それは私が思うには、映画『男はつらいよであり、あるいは、じっとり雨降る、夏の宵、水田にこだまする蛙声

 著者は、日本文化の根底にあるものとして次の五つを挙げている。

一、東海道、とりわけ富士山
二、桜
三、中国文化
四、正月
五、海

 確かになるほどと思える。

 それに対置されるドイツ文化は次のとおり。

一、ライン河、とりわけローレライ
二、菩提樹
三、南国イタリア
四、クリスマス
五、森

 文学作品とりわけを取り上げながらドイツの原風景を巡る本書には、他にも「メランコリー」という心性や、「長くて厳しい冬、モミの樹」といった自然環境的なキーワードも登場する。

 ステレオタイプ的なものが倦厭される昨今、そうは言ってもおおむねそのような傾向性のうちに理解が深まるということもあるわけだから、話半分ながらも伝統的な文化論の枠組みを知っておくに越したことはない。

中也の色彩-小川が青く光つてゐるのは

 詩人・中原中也色彩感覚に関して、極めて印象深い詩を、1933年から1936年にかけての未発表ないし草稿詩篇から二つご紹介。

  


かがやかしい朝よ、
紫の、物々の影よ、
つめたい、朝の空気よ、
灰色の、甍よ、
水色の、空よ、
風よ!


なにか思い出せない・・・・・・
大切な、こころのものよ、
底の方でか、遥か上方でか、
今も鳴る、失くした笛よ、
その笛、短くはなる、
短く!


風よ!
水色の、空よ、
灰色の、甍よ、
つめたい、朝の空気よ、
かがやかしい朝
紫の、物々の影よ・・・・・・

 季節は、はっきりとはわからない。
 一読、冬の朝にも見えるが、まだ火鉢を片付けることができない早春の朝かもしれないし、あるいは冬の訪れを予感させる晩秋の朝なのかもしれない。
 
 ひんやりとして清廉な朝に、さまざまの色彩を見て取る詩人には、茫洋として笛の音さえも聞こえてくるが、この日の朝は、それが太陽とともに迎える明るい朝であることは間違いなさそうである。
 白か黄か、陽光のまぶしさは読者にゆだねられている。季節感は、だから尚更ぼかされている。

   ◆ ◆ ◆

 もうひとつは、無題の草稿である。

小川が青く光つてゐるのは、
あれは、空の色を映してゐるからなんださうだ。


山の彼方に、雲はたたずまひ、
山の端は、あの永遠の目ばたきは、
却て一本の草花に語つてゐた。


一本の草花は、広い畑の中に、
咲いてゐた。---葡萄畑の、
あの脣黒い老婆に眺めいらるるままに。


レールが青く光つてゐるのは、
あれは、空の色を映して青いんださうだ。


秋の日よ! 風よ!
僕は汽車に乗つて、富士の裾野をとほつてゐた。

 詩仙・李白のような、漢詩的なスケールの大きさ、遠近法、それらの対比が、最終的には富士にも重ねられ、その幾重にも連なる対比構造が、この無題の草稿の構成を揺るぎなく支えている。
 ブドウ畑と不健康そうな高齢の女性の姿から、私にはミレーの落穂拾いが類推惹起せられたが、いかがだろうか。

 そうでなくともどこか自然主義的な装いさえ見せるこの草稿の、この何とも言えない余韻、詩情の尊さに、詩人の才はこの上なく光る。

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ヨハネによる福音書16章22節『再会の予告』

 ヨハネによる福音書16章22節は、再会を予告する。

 新共同訳では次のとおり。

ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

 なお、岩波版新約聖書翻訳委員会による小林稔では次のとおり。

ところであなたがたにも今は悲しみがある。だが、再び私を見て、あなたがたの心は喜ぶこととなり、その喜びをあなたがたから奪うものは誰もない。

 こうして並べてみると、新共同訳は典礼での使用、すなわち音読と説教を考慮しての訳出になっているように思われる。
 
 さて、宮平望による私訳はどうだろうか。

そこで、あなたたち自身も今、悲しみを抱いているが、再び私はあななたちに会い、あなたたちの心は喜ぶだろう。そして、誰も、あなたたちの喜びをあなたたちから取り除かない。

 日常利用ではやはり新共同訳だが、より忠実な訳出という点では小林稔訳と宮平望訳を参考にすべきものかと思われる。

 ところで、2018年、新共同訳の後継にあたる聖書協会共同訳が刊行された。
 これによれば次のとおり。

このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

 産みの苦しみと喜びになぞらえて、不在から臨在への喜びが静かに、しかし決然と語られるこの一節は、一連の告別説教のなかでも極めて印象深い。