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人文系の書籍やクラシック音楽にまつわるエッセイ集

読書録:近代美学入門

 もっと早くこんな本に出会えていれば、というのが第一印象である。

 芸術、芸術家、美、崇高といった近代美学の主要テーマが平易な言葉で簡潔にまとめられている。
 諸概念の変遷から現代的意味まで、まんべんなく、過不足なく、初学者向けに述べられており、おそらく高校生以上であれば十分に内容を理解できそうである。
 
 とりわけ印象的な箇所は、古典的な美の理論の解説部分である。
 著者のまとめ方は「美=プロポーション=シンメトリー=ハーモニー=オーダー」という実に明快なものである。非常にわかりやすく、それでいて古代ギリシャから19世紀に至る美の伝統的概念を明瞭に言い当てているように思う。
 本書は新書でありながらも、巻末の読書案内に「新書」というジャンルを設けており、これこそまさに、本書こそが入門書であることを裏付けているようにも思えた。美やアートについて考えるときの土台作りのための最初の一冊として、最適の一冊である。

マタイによる福音書5章8節『心の清い人々』

 心の貧しい人々は、から始まる「山上の説教」はとても有名だが、その冒頭部分の一節に次のようにある。

心の清い人々は、幸いである
その人たちは、神を見る。

 よく生きようとするなかで、有用性や有益性に回収されない何かに、人は出会う。
 それは、善い行いであったり、美しい自然であったり、さまざまである。

 アリストテレスは、それを観想的生活として、最上の生活態度として見ていた。実用性や利便性に埋没しえない何か、その圧倒的かつ固有的な存在感や真実味を見定めることこそ、のあるべき姿と考えていた。
 アリストテレスの思索は、中世スコラ学を通じて、デカルトライプニッツ、カントへと流れ込む。デカルトライプニッツにおいて、自然美や芸術美は知的な喜びであり、カントにおいてそれは無関心性として逆説的に定義された。
 
 20世紀に入っても、その論点は西洋の思想を大いに基礎づけている。ハイデガー手段目的関連というキーワードを用いて、それに没却されずにあるもの、人間や芸術、存在そのものについての思索を深めた。

 旧約新約の時代において、そういった思考はひとえに神へと集約される。
 聖書の言葉と古典古代の思索をたどることは、西洋文化の根底にある思考の軌跡を確認することでもある。

ヘッセの詩より『炎』

 誰しも、心ざわつく日々がある。
 そんな時、ヘルマン=ヘッセの詩は、よき理解者であり、道しるべである。
 『炎』と題された短い詩は、私たちに優しく前向きに語りかけてくる。

おまえがつまらぬものの間を踊って行こうと、
おまえの心が憂いに苦しみ傷つこうと、
おまえは日ごとに新しく味わうだろう、
生の炎がおまえの中に燃えているという奇跡を。
(・・・)
だが、陰気な薄明を通ずる道を行くもの、
日々の煩いにたんのうし
生の炎をついぞ感じないものだけは、
その日々を空しく失うのだ。

 大学浪人時代にヘッセの詩に出くわしてから、もう長い年月が流れた。
 いつ読んでも、詩人は温かく迎え入れてくれる。

 『困難な時期にある友だちたちに』という詩は、達観している。

日の輝きと暴風雨とは
同じ空の違った表情に過ぎない。

 長いトンネルも、抜けてみれば、空は明るく、トンネルの長さをもはや思い出すこともない。


 

読書録:バッハ『ゴルトベルク変奏曲』世界・音楽・メディア

 一つの音楽作品を通じて、作曲家や音楽史、ジャンルや作曲技法を多角的に論ずる、音楽エッセイのお手本のような良書。

 これはバッハというよりゴルトベルク変奏曲が好きな人向けの一冊かもしれない。

 ある一曲からどれだけの論点を引き出せるかということで言えば、本書はまさにありとあらゆる音楽的なテーマについて触れている。
 バッハの人生も、17-18世紀の音楽の理論や文化も、20世紀におけるさまざまの演奏、録音、アレンジや編曲も、いずれもひとしくゴルトベルク変奏曲の世界観を構成している。一つの音楽作品は、楽音や楽譜以外の多数の文化的思想的歴史的な背景を伴いながら、ある一つの音楽的な世界そのものを呈示しているとさえ言える。

 大学のゼミナールを彷彿とさせる口語調の記述が印象的な本書は、ゴルトベルク変奏曲という音楽世界、あるいは音楽文化論へのいざないでもある。

読書録:ドイツ人のこころ

 日本人のこころのふるさとは、何だろうか。
 それは私が思うには、映画『男はつらいよであり、あるいは、じっとり雨降る、夏の宵、水田にこだまする蛙声

 著者は、日本文化の根底にあるものとして次の五つを挙げている。

一、東海道、とりわけ富士山
二、桜
三、中国文化
四、正月
五、海

 確かになるほどと思える。

 それに対置されるドイツ文化は次のとおり。

一、ライン河、とりわけローレライ
二、菩提樹
三、南国イタリア
四、クリスマス
五、森

 文学作品とりわけを取り上げながらドイツの原風景を巡る本書には、他にも「メランコリー」という心性や、「長くて厳しい冬、モミの樹」といった自然環境的なキーワードも登場する。

 ステレオタイプ的なものが倦厭される昨今、そうは言ってもおおむねそのような傾向性のうちに理解が深まるということもあるわけだから、話半分ながらも伝統的な文化論の枠組みを知っておくに越したことはない。