趣味愉楽 詩酒音楽

人文系の書籍やクラシック音楽にまつわるエッセイ集

泣くな心よ、怖るな心

 1934年も暮れの草稿である。

なんにも書かなかつたら
みんな書いたことになつた


覚悟を定めてみれば、
此の世は平明なものだつた


夕陽に向つて、
野原に立つてゐた。


まぶしくなると、
また歩み出した。


何をくよくよ、
川端やなぎ、だ……


土手の柳を、
見て暮らせ、よだ


         (1934・12・29)

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

O J.S.Bach, meins Lebens Licht

 つい先日カンタータ全曲録音を成しとげたバッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハのモテット集。

J. S. バッハ:モテット全集 (J.S. Bach : Motets / Masaaki Suzuki , BCJ) (SACD Hybrid)

J. S. バッハ:モテット全集 (J.S. Bach : Motets / Masaaki Suzuki , BCJ) (SACD Hybrid)

 純粋にバッハの合唱の魅力を堪能できる秀作。

だが究極では混りはしない

 未発表の詩篇の1つに《玩具の賦》というのがある。

(・・・)
俺にはおもちやが要るんだ
おもちやで遊ばなくちやならないんだ
利得と幸福とは大体は混る
だが究極では混りはしない
俺は混らないとこばつかり感じてゐなけあならなくなつてるんだ
月給が増えるからといつておもちやが投げ出したくはないんだ
俺にはおもちやがよく分つてるんだ
おもちやのつまらないことも
おもちやがつまらなくもそれを弄べることはつまらなくはないことも
俺にはおもちやが投げ出せないんだ
こつそり弄べもしないんだ
つまり余技ではないんだ
おれはおもちやで遊ぶぞ
おまえは月給で遊び給えだ
おもちやで俺が遊んでゐる時
あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だなぞと云ふのはよいが
それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは
滑稽だぞ
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ
贅沢なぞとは云いめさるなよ
おれ程おまへもおもちやが見えたら
おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから
文句なぞを云ふなよ
それどころか
おまへはおもちやを知つていないから
おもちやでないことも分りはしない
おもちやでないことをただそらんじて
それで月給の種なんぞにしてやがるんだ
それゆゑもしも此の俺がおもちやも買へなくなつた時には
写字器械奴!
云はずと知れたこと乍ら
おまへが月給を取ることが贅沢だと云つてやるぞ
行つたり来たりしか出来ないくせに
行つても行つてもまだ行かうおもちや遊びに
何とか云へるがものはないぞ
おもちやが面白くもないくせに
おもちやを商ふことしか出来ないくせに
おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに
おもちやで遊んでゐらあとは何事だ
おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ
おもちやで遊べたら遊んでみてくれ
おまへに遊べる筈はないのだ
(・・・)

 1934年の作である。「おまへ」というのはおそらく盟友の大岡昇平のことだと思われる。

山羊の歌―中原中也詩集 (角川文庫―角川文庫クラシックス)

山羊の歌―中原中也詩集 (角川文庫―角川文庫クラシックス)

ハイデガーの芸術観(1959)

 1959年6月6日にヘルダーリンの大地と天』というタイトルで行われた講演には、ハイデガーの芸術(作品)観がコンパクトにまとめられた箇所がある。
 ヘルダーリンによる書簡の一節を引用しそれを解釈しながら、ハイデガーは次のように述べる。

 芸術とは、目に見えないものを示しながら現象させることとして、最高のあり方のしるしである。そのように示す根拠と頂点は、またもや、詩作する歌として述べるなかで展開される。
 ギリシア人たちにとっては、しかし、この示されるべきもの、すなわち、それ自体から輝くものは、要するに、真実のものであり、である。それゆえ、これは芸術であり、人間の詩作する本性である。詩人として住む人間はすべての輝くもの、大地と天と神聖なものを、それ自身として存立し、すべてを保持しながら、現れて来るようにし、作品という形態で確実に存立させる。「すべてを存立させてそれ自身として保つこと」― これは創設することである。
(※太字処理は筆者による)

 創設する stiften*1 ―― これはハイデガーが好んで用いる表現である。かの有名な『芸術作品の根源』(1935/36)の終盤においても「芸術の本質は詩作である。そして詩作の本質は真理の創設[Stiftung]である。」とある。*2

ヘルダーリンの詩作の解明〈第1部門〉既刊著作(1910‐76) (ハイデッガー全集)

ヘルダーリンの詩作の解明〈第1部門〉既刊著作(1910‐76) (ハイデッガー全集)

*1:stiften 1.建てる、建設する;設立する、樹立する 2.奉納する、寄進する;寄付する;進呈する、贈る 3.造る;引き起こす、実現させる

*2:関口浩氏によればこの単語の出どころは『追想』(ヘルダーリン作)であろうということである。

ハイデガー『詩』(1968)

 1968年8月25日になされた講演を推敲したテクスト『詩』は短いながらもハイデガーの思索を余すところなく伝える。

1.詩人と神々の関係について

詩人が話すことは、示しながら、被い隠しつつ - 被いを取り除いて、
神々*1の到着を現出させるのに、必要とされるのであり、
しかも神々は、現出することで初めて神々自身であるために、
自分たちの現出のために詩人の言葉を必要とする
(※以下、太字処理は筆者)


2.神々の名を呼ぶことについて

名を呼ぶことは、叫びかけて剥き出しにすることであるとともに、包み隠すことでもある


3.述べることの本質について

述べることで、まさにただ述べることによってのみ、
述べられてはいないことを、しかも述べられてはいないこととして現出させること

 
 ヘルダーリンの詩作を存分に解釈しながらハイデガー言葉の限界を思考する。それは存在についての思索でもある。
 ハイデガーの存在への思索は、呈示(あらわれ)- 隠伏(かくれ)の相互浸透をその基本的なモチーフとしているように思える。あるいは、言葉そのものが宿命的にそなえ(てしまっ)ている本質的な語り尽くせなさや到達しえなさ、そういった言葉そのものの持つ宿世(それは人間そのものの命運でもある)へのあくなき洞察を基調としているようにも見える。

ヘルダーリンの詩作の解明〈第1部門〉既刊著作(1910‐76) (ハイデッガー全集)

ヘルダーリンの詩作の解明〈第1部門〉既刊著作(1910‐76) (ハイデッガー全集)

*1:ここでいう「神々」は特定の神なるものについて言っているのではない。まさに「3.述べることの本質について」と関連しているわけだが、「神々」という呼び名は仮のものでしかない。ハイデガーは言いえない存在の神秘について近づこうとして「神々」というワードを当てたのだと思われる。もちろんそれはヘルダーリンからの影響であることは間違いない。