ハンス=ゲオルク・ガダマー(1900~2002)はハイデガーからの圧倒的な影響を受けつつ、自身の解釈学を打ち立て、1960年に主著『真理と方法』を世に送った。
ハイデガーの思索についてある程度の理解があれば、ガダマーの言わんとしているところをつかむのはそう難しいことではない。ガダマーはおおむねハイデガーの存在論の文脈の中で、テクスト(芸術作品)について語る。彼は主観・客観の二分法を退け、自立したテクストそのものの自己呈示を主張する。我々人間は授かりし言葉を通じてテクストの自己呈示(開け:真理の開け)にまつわる出来事(事態)に立ちあうことになるというわけである。そのうえでガダマーは「解釈」およびその解釈を可能とする「テクスト」の可能性について焦点を当てる。
ガダマーの思索への入門書として次をおすすめする。
順序としては、ハイデガーの後期(あるいは《転回》以後)の思索、たとえば『芸術作品の根源』や『ヒューマニズム書簡』等を読んでからのほうが理解は深まるとおもわれる。とはいえ身近でわかりやすい事例を挙げながら解説しているので読みやすい。
とりわけ第5章の「意図を超える意味」の節はガダマーの思索の理解に大いに参考になる。
ガダマーにとって、言語は人間が意思を表現し伝達するために自由に用いる道具ではない。ハイデガーが言うように、人間が言語を通じて話すのではなく、言語が話し、人間はそれに応ずるだけである。そして、言語の本来のあり方である対話は、対話者たちが「行う」というよりは、「思いがけず入り込む(geraten)」ものである。
著者は「売り言葉に買い言葉」といった例を出しつつ、対話そのものの自律した機能(自己駆動)の優位(人間に対する優位)を述べている。ガダマー自身、『真理と方法』の第1部第2章第1節において「遊び(Spiel)」という例を持ちだしながら、「遊ぶ者」を通じて自己呈示してくる「遊び」そのものの自立した存在性について述べている。
過去の理解は過去との対話であり、テクスト了解はテクストとの対話である。(…)ガダマーはテクスト(伝承)は語りかける(ansprechen)という言い方をしばしばする。(…)対話の事柄が対話者の意図を超えているように、テクストの事柄は著者の意図を超えている。
ここにおいてテクストの本質が語られる。対話が思いもよらぬ方向へ脱線したり、なにかしらの行為が予想外の歴史的事件に及んだりする例はありふれたものだろう。テクスト(解釈)に関わる出来事も同様に、当初の意図を逸脱する可能性を常に秘めているのである。そのようにして解釈に対して常に「開か」れているテクスト(芸術作品)においてこそ(存在の)真理が見え隠れするわけである。
ガダマーの解釈学は結局すべてが「歴史的な存在」であることに根拠を求めていくきらいがある。*1そうでなくともハイデガーの二番煎じという様相はまぬがれえまい。かといって私はガダマーの思索自体が無価値だとは決して考えない。彼はハイデガーが描かなかった領域*2に見事に光を当てているのだから。