ハイデガーの芸術観(1959)
1959年6月6日に『ヘルダーリンの大地と天』というタイトルで行われた講演には、ハイデガーの芸術(作品)観がコンパクトにまとめられた箇所がある。
ヘルダーリンによる書簡の一節を引用しそれを解釈しながら、ハイデガーは次のように述べる。
芸術とは、目に見えないものを示しながら現象させることとして、最高のあり方のしるしである。そのように示す根拠と頂点は、またもや、詩作する歌として述べるなかで展開される。
ギリシア人たちにとっては、しかし、この示されるべきもの、すなわち、それ自体から輝くものは、要するに、真実のものであり、美である。それゆえ、これは芸術であり、人間の詩作する本性である。詩人として住む人間はすべての輝くもの、大地と天と神聖なものを、それ自身として存立し、すべてを保持しながら、現れて来るようにし、作品という形態で確実に存立させる。「すべてを存立させてそれ自身として保つこと」― これは創設することである。
(※太字処理は筆者による)
創設する stiften*1 ―― これはハイデガーが好んで用いる表現である。かの有名な『芸術作品の根源』(1935/36)の終盤においても「芸術の本質は詩作である。そして詩作の本質は真理の創設[Stiftung]である。」とある。*2
ヘルダーリンの詩作の解明〈第1部門〉既刊著作(1910‐76) (ハイデッガー全集)
- 作者: ハイデッガー,Martin Heidegger,辻村公一,上妻精,H.ブフナー,S.ミュラー,茅野良男,大橋良介,A.グッツオーニ,Iris Buchheim,〓@57B8@田恂子,イーリスブフハイム
- 出版社/メーカー: 創文社
- 発売日: 1997/06
- メディア: 単行本
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ハイデガー『詩』(1968)
1968年8月25日になされた講演を推敲したテクスト『詩』は短いながらもハイデガーの思索を余すところなく伝える。
1.詩人と神々の関係について
詩人が話すことは、示しながら、被い隠しつつ - 被いを取り除いて、
神々*1の到着を現出させるのに、必要とされるのであり、
しかも神々は、現出することで初めて神々自身であるために、
自分たちの現出のために詩人の言葉を必要とする
(※以下、太字処理は筆者)
2.神々の名を呼ぶことについて
名を呼ぶことは、叫びかけて剥き出しにすることであるとともに、包み隠すことでもある
3.述べることの本質について
述べることで、まさにただ述べることによってのみ、
述べられてはいないことを、しかも述べられてはいないこととして現出させること
ヘルダーリンの詩作を存分に解釈しながらハイデガーは言葉の限界を思考する。それは存在についての思索でもある。
ハイデガーの存在への思索は、呈示(あらわれ)- 隠伏(かくれ)の相互浸透をその基本的なモチーフとしているように思える。あるいは、言葉そのものが宿命的にそなえ(てしまっ)ている本質的な語り尽くせなさや到達しえなさ、そういった言葉そのものの持つ宿世(それは人間そのものの命運でもある)へのあくなき洞察を基調としているようにも見える。
ヘルダーリンの詩作の解明〈第1部門〉既刊著作(1910‐76) (ハイデッガー全集)
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The Gospel according to John
第18章25~27節におけるペトロ。
Peter was still standing there keeping himself warm. So the others said to him, "Aren't you also one of the disciples of that man?"
But Peter denied it. "No, I am not," he said.
One of the High Priest's slaves, a relative of the man whose ear Peter had cut off, spoke up. "Didn't I see you with him in the garden?" he asked.
Again Peter said "No" --- and at once a rooster crowed.
Holy Bible: English Standard Verson, Blue, Value Pew
- 作者: Crossway Bibles
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ハイデガーの技術・芸術論(1967)(後)
『Die Herkunft der Kunst und die Bestimmung des Denkens(芸術の由来と思索の使命)』(1967)の最終節においては、科学と方法の優位によって疎外されている人間性を回復するものとしての(芸術)作品が思索の鍵となるが、ハイデガーにあってその思索の根底にある問題意識は「存在という神秘(謎)」を問い続けることにほかならない。
テクストのクライマックスは、すべてをこの世に在らしめる空間と時間の話から始まる。
いかなる空間もさまざまの事物にそれらのための場所と配置とを明け渡すこと[einraeumen]はできないだろうし、いかなる時間も生成と消滅とに年月を、すなわち延長と持続とを時熟[zeitigen]させることはできないだろう。空間と時間とに、そして両者がともに属しあうことに、両者をくまなく支配する開放性がすでに授けられていないならば。(※太字及び下線処理は以下筆者による)
極めて異質な言い方であるが、要するに普段私たちが慣れ親しんでいる数量的な(物理的に数値処理可能な)外界把握の枠組みをいったん取り外して考えようという方向性の宣言であろう。空間と時間という座標軸をそもそも可能にしている根源的な「存在」への思索をはじめようということである。
ギリシア人の言葉は、空けたところの空け渡し[Freigabe]をア - レーテイア(※ギリシア語省略)、つまり不 - 伏蔵性[Un-verborgenheit]と名づける。この空け渡しこそがあらゆる開放的なところをはじめて許容するのである。
空間と時間を可能にする根源的な可能性としての「存在」のことをハイデガーはアレーテイアすなわち不伏蔵性と呼ぶ。訳者によっては非秘匿性や非隠蔽性などと訳したりもするが、要するに「隠されていないさま、蔽われていないさま」のことであると考えていいだろう。(※「ある」ということを「隠されていない」と表現しているのはただの言葉遊びに過ぎないようにも見えるが、この疑問は現象学の大前提に立ってみることで解消するものと思われる。当たり前に存在しているように見えるものをあえて疑うという態度こそが現象学の出発点となっているのである。)
◆ ◆ ◆
こうして不伏蔵性というキーワードを導入したところで最大の難所が登場する。
不 - 伏蔵性は伏蔵性を除去するのではない。それはほとんど起こりえないことであって、開蔵すること[Entbergung]はつねに伏蔵することを要するのである。すでにヘラクレイトスがこの関係を次のような言葉で暗示している。(※ギリシア語省略、表記一部改編)
それ自体から立ち現れてくるものに固有なのは、それ自体を伏蔵することである。
(…)開 - 蔵は伏蔵に属するので、それ自体を伏蔵し、しかもこの自己脱却によって事物にその限界づけから出現する滞在[Verweilen]を許し与える。
さて、訳者の関口浩さんは2002年に平凡社から同じくハイデガーの『Der Ursprung ded Kunstwerkes(芸術作品の根源)』を出されているが、その訳注29には次のようにある。
1934・35年の〈ヘルダーリン講義〉には次のような一節がある。「この言葉「万物は流転する」は、万物は存立することなしに変化のうちに継続する、ということを意味するのではなく、むしろ、汝はいずれか一方の側だけに固着することはできないのであって、抗争としての闘争によって反対側に運ばれるのであり、この闘いの往復運動においてはじめて存在するものはその存在をもつ、ということを意味する。流転とここで言うのは、単にとどめようもなくたえず事物が解体し滅びて行くことではなく、反対に、抗争の流転、すなわち抗争的な調和こそがまさに存立と常立性、すなわち存在を創出するのである」(GA39,S.127)
ヘラクレイトスの最も有名な言葉についてのハイデガーの解釈である。
30年代特有の言葉の選び方(闘争や抗争など)が異様な緊張感をはらんでいるが、1927年の『存在と時間』をはじめとしてハイデガーの根底にずっとあるのは「存在という真理=存在の有無の相互浸透」という直観であると私は考えている。
神社でもらう「お守り」のようなものである。開けてはならないが、子供心に開けたくなる。しかし開けてもなにも無い。開けられないままでいるからそれは有(りえ)る。開けようとするとそれは逃げゆく。ひとにできるのはただその痕跡や気配を感じることだけである。その不思議な緊張のバランスが存在の神秘に通じている。
ところで、創文社によるハイデガー全集の第4巻に収められている『ヘルダーリンの大地と天』というテクストのクラマックスも同じくヘラクレイトスの言葉(断片54)の解釈が鍵となる。
見えない組み立ては見える組み立てより強力である。(※ギリシア語省略、表記一部改変)
その現出を拒む組み立ては、姿を現してくる組み立てよりも高次に統べる組み立てである。( a )
( a )(…)見えるものはすべて見えないものによる―言いうるものはすべて言いえないものによる―輝くものはすべて隠れているものによるのである。隠れているものは隠れてはいないものよりもギリシア的本性の近くにいる。隠れてはいないものは隠れているものによって生きる。
( a )の注はハイデガー全集の原出版社(クロスターマン社)の編集者によるものである。
(※ちなみに「組み立て」にあたる古代ギリシア語は「ハルモニア」であり、その意味は「連結」「組み合わせ」「枠組み」である。)
「蔽わ-れ」の自己提示と自己解除の相互浸透というイメージがおそらく言及したい領域の近くに位置するのではという気がする。
◆ ◆ ◆
原テクスト『Die Herkunft der Kunst und die Bestimmung des Denkens(芸術の由来と思索の使命)』の終盤において、ハイデガーは思索の道を提示するに留まる。
ひょっとすると、いまだ思索されないままのア - レーテイアの秘密へと目配せすることは、同時に、芸術の由来の領域を指し示すのではないか? この領域から作品を生み出すこと[Hervorbringen]への語りかけが到来するのではないか? 作品は、作品としては、人間の意のままにならないもの、それ自体を伏蔵するものを指し示してはならないのか?すでに知られ、熟知され、行われていることだけを語らねばならないのか? 芸術作品は、それ自体を伏蔵するものを黙殺してはならないのではないか? そのものこそ、それ自体を伏蔵するものとして、計画も制御も、計算も製造もなされえないものに直面して人間に畏怖の念を起こさせるのである。
ヘルダーリンの詩作のキーワードを導き手としながらテクストはエピローグを迎える。
この地上にとどまりつつ世界に滞在すること、すなわちそれ自体を伏蔵する不伏蔵性の声[Stimme]によって規定される[bestimmen(声をかけられる)]ような住むことは、この地上の人間になお恵まれているだろうか?
われわれはそれを知らない。(※筆者としては「われわれにはそれはわからない」と訳してみたいところである。)
- 作者: マルティンハイデッガー,Martin Heidegger,関口浩
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ハイデガーの技術・芸術論(1967)(前)
1967年4月4日にアテネ学芸アカデミーで行われた講演をもとに校訂された『Die Herkunft der Kunst und die Bestimmung des Denkens(芸術の由来と思索の使命)』にはハイデガーのKunst(技術・芸術)についての考えが端的に述べられている。
- 作者: マルティンハイデッガー,Martin Heidegger,関口浩
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本書の第5論文として収められている当該テキストについて、その全体は大きく3つの部分に分けられる。
- 古代ギリシャにおけるテクネー(技術・芸術)論
- 科学と方法に裏付けられた近現代の社会と私たち
- 思索しつづけることの必要性
◆ ◆ ◆
テクネー論は次のように開始される。
テクネーという語は一種の知を名指している。それは作ることや製造することを意味するのではない。この知は、造形物や作品を制作するさいに不可欠なものをあらかじめ看取することを意味する。作品は、学問の、哲学の、詩作の、弁論の作品でもありうる。(…)テクネーとしての芸術はある種の知にもとづくのであり、そしてそのような知が、形態を - 指示し、尺度を - 与えるが、いまだ目に見えないもの、――このものはようやく作品において目に見え、耳に聞こえるようにされることになるのだが――をあらかじめ看取する[vorblicken]のである。(※太字処理は以降筆者による)
そうして現実のものとなる作品の形を形づくるその輪郭について話が進む。
限界はものの輪郭や枠にすぎぬのではなく、そこでなにかが終わっていまうところにすぎぬのでもない。限界とは、それによってなにかがその固有なものへと集められるようなものなのである。かくして限界からそのなにかはそれに固有なものに満たされて出現する。すなわち現前性[Anwesenheit]のうちへと現れ出る[hervorkommen]。
ハイデガーはここで「ものの存在の様相」を描きだそうとしているようにみえる。それは現実・現存・実存という観点から真の存在の相を記述しようとするものである。いずれにせよここまでの話は次のようにまとめられるだろう。
人間の行為はそのようにして明らかに看取されたものを作品という目に見えるものへと生み出す[hervorbringen]のである。
◆ ◆ ◆
テクネー論の後半は「ピュシス」*1との関連のうちに述べられる。まず、ピュシスとは何か?
ピュシスとは、それ自体からそれのそのつどの限界のうちへと立ち現れてくるもの[Aufgehende]、そしてそのうちにとどまる[verweilen]ものなのである。
こう述べたうえで、人間ではなくピュシスの優位のうちに芸術が発現したのだとハイデガーは考える。
世界の全体がそれ自体をピュシスとして人間に言い渡し[zusprechen]、そして人間をそのピュシスの語りかけ[Anspruch]のうちに受け入れた、ここ、ギリシアでのみ、人間の聞くことと行いとは、ただちにその語りかけに応答することができたし、応答せざるとえなかった――それまでになお出現していなかった世界を作品として出現[erscheinen]させることになるものを、自分自身から、自分自身の能力にもとづいて、現前性へともたらすということを迫られるやいなや。
けっして人間という要因を否定するわけではないが、かといって作品はピュシスなくしては存在しえないのである。
人間の制作プロセスはピュシスへの応答として述べられる。ハイデガーはここで人間が主体となるような表現を巧みに避けている。
テクネー論の最後は次のように締めくくられる。
芸術はピュシスに応答するが、しかしそれはすでに現前しているものの模造でも模写でもない。ピュシスとテクネーとは秘密に満ちたしかたで共に属しあっている。しかし、ピュシスとテクネーとが共に属しあう領域と、芸術が芸術としてその本質において存在するものとなるために関与しなければならない領域とは、依然として伏蔵されたままである。
ハイデガーは古典的な芸術理論であるミメーシス*2の理念をここではっきりと排除する。
そのうえで、ピュシス[自然]とテクネー(技術・芸術)の共通部分[あるいは応答関係]と、いわゆる芸術の本質とはいまだ謎に包まれたままだと述べる。このあたりの記述は簡潔ながらも(はっきりいって)錯綜しており、またどうにも思わせぶりな書きぶりだが、意図としてはおおよそ、自然と芸術との応答関係にこそハイデガーが思索しつづける存在の謎(神秘)のエッセンスが隠されているといったようなものだろうか。芸術――ハイデガーにおいては詩作がその代表であるが――についての思索が存在への思索につながるというハイデガーの基本的立場がここに表明されているとも考えられるだろう。ヘルダーリンの詩作に導かれて存在への思索の道を歩むハイデガーにとって芸術は外せないものなのである。
ページを変えて本著作の最終場面をみていきたい。