パウル・ベッカーのブルックナー論(前)
パウル・ベッカー(1882~1937)は『ベートーヴェン』や『西洋音楽史』等の著作で知られるドイツの音楽評論家である。
- 作者: パウルベッカー,松村哲哉
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2013/04/18
- メディア: 単行本
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この著作にはブルックナーを評した箇所がある。ベッカーがこれを書いたのが1936年のニューヨーク*1であることから、ブルックナーの交響曲をいわゆる原典版(ハース版)*2で聞くことができたのは最大でも「第1番」「第5番」「第6番」「第9番」であると推測される。*3
1.ブラームスとの比較
ベッカーはブラームスとの比較を通じて次のように述べる。
ブラームスの作品が論理的な展開を見せるのに対して、ブルックナーの作品はシンプルな構造を持ち、一歩一歩踏みしめるように進行する。ブラームスが簡潔さと堅牢さを併せ持った曲を書いたのに対してブルックナーはゆうゆうとどこまでも流れていく大河のような曲を書いた。そしてブルックナーの音楽は淡々と進行するため、自らの心のうちをさらけ出すような場面とは無縁である。ブラームスの重厚な音楽がそうした要素を内に秘めているのとは対照的だ。(※太字処理は筆者による)
2.ワーグナーからの影響
ワーグナーの半音階的な和声法から受けた影響については次のように述べる。
創作活動の中核は人間の理知的な力が及ばない意識の深層へともぐり込み、そこからふたたび浮かび上がってくるものは、もはや主題の個性ではなく、音の集合体としての和音である。個々の和音は互いに引かれ合ってハーモニーをかたちづくる。このように主題の個性を超越したプロセスが転回するなかで、曲の基本的なイメージが決定する。またこうした展開は、ゆとりある形式を必要とし、気まぐれな曲想の変化が呼び起こされる。その結果主題の個性に基づくこまごまとした展開は失われるのである。それまでは曲を構成する要素のひとつにすぎなかったハーモニーは、それ自体が複雑な完結した世界を構成するようになり、決定的な重要性を獲得することで、曲づくりのための根源的な力へと変貌したのである。(…)つまり音楽以外の要因を排除して、ワーグナーが切り開いた新天地から音楽に直接かかわる部分のエッセンスだけを吸収したのである。(※太字処理は筆者による)
以上、本書の第8章第4節に相当する部分である。ページをあらためて第5節に相当する部分もみていきたい。
近代的芸術観の成立
我々が今日いわゆる「芸術」と呼んでいるものは正しくは「西洋近代芸術」と呼ばれるべきだろう。
- 作者: 小田部胤久
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2001/11
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以下、私が重要だと感じた箇所まとめである。
■18世紀中葉のヴォルフ学派の理論
- 神による創造(可能的世界の創造)というモチーフを芸術家の創作活動にも準用
- 芸術家の創造と自然模倣説の調停(バランス):芸術家の創作行為は、神になりかわって可能的世界を創造する(現実化する)という限りにおいてのみ許容される(あくまで自然という規範は揺るがない)
- 類比関係によって芸術家の領域を画定… [ 神による世界(自然)の創造 ] と [ 芸術家による作品の創造 ] という類比
■18世紀終盤における近代的芸術観の成立
- 18世紀終盤において「古典的芸術(制作)観」から「近代的芸術(創作)観」へのゆるやかな変遷が見受けられる
- 古典的芸術(制作)観においては「原像 - 模像」が基本理念であり、原像の価値的優位(原像=オリジナルとは「神」が創造したもの、あるいは自然)を前提としてそれを「模倣(ミメーシス)」する限りで制作がなされる
- 近代的芸術(創作)観へと移行する過程で、模像は徐々に自立・自律したものと見なされるようになり、それは制作者(作者)の存在を差ししめすようになる
- 近代的芸術(創作)観においては「作者(天才)- 作品 - 享受者」が基本理念であり、天才という個人の自立性・自律性や独創性の「表現」として作品という世界が開かれる
■カントとシェリングにおける「自然との調停」
- カントとシェリングは、自然と「 Kunst(独):art(英)」[ 技術、技巧、人工、人為 ] とが対立するものであるという前提を認めたうえで、なおそれらの調停をもくろむ:それらの共通接点としての「芸術作品」という理念
- 人為的なものでありながらも「非機械的」なもの(人間精神の無限性の証左)としての芸術作品という理念
- 天才的な作者の表現意図というものを認めつつも、「主体における自然」(カント)あるいは「没意識的活動」(シェリング)といったキーワードで、必ずしも天才個人に還元しつくせない「無限性」(本来は神・自然にのみあてはまる概念)を作品に見てとる*1
■スミスの器楽理論
- スミスによって1780年代に書かれたとされる文献からは近代的な器楽理論が読みとれる
- 器楽の非模倣性すなわち歌詞やタイトルなしの純粋な楽音だけでの模倣には限界があるという考えは、むしろ肯定的に逆転されうる:器楽は極めて高度の自己完結性をそなえている(それ自体で自身の「世界」を構成している)=高度の自律性を内部に秘めている*2
ブルックナーの弦五
ブルックナーがウィーンへ移住して10年、まったく評価されないなかただひたすら交響曲を書き続けていた頃、不思議な縁で彼は弦楽五重奏曲を作曲することになる。
- アーティスト: ウィーン弦楽五重奏団,ブルックナー,クリスチャン(トーマス),ベヒター(ペーター),リー(トビアス),オクセンホーファー(ハンス・ペーター),ヘル(ミヒャエル)
- 出版社/メーカー: カメラータ・トウキョウ
- 発売日: 1996/05/21
- メディア: CD
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第1および第4楽章において、提示部・展開部・再現部の区切りや移行区間は巧みにぼかされている。自作の交響曲がいずれも不評とあって、ブルックナーは自己批判の時期にあった。彼は既存のソナタ形式を巧妙にアレンジする形での新たな形式(かたち)を求めていた。
幸いにもこの弦楽五重奏曲の完成から数年のうちに、第4交響曲(第二稿)はウィーンに来てからの初めての成功をおさめ、ほどなくしてあのホ長調の第7交響曲が世に出ることになる。
この弦楽五重奏曲の第3楽章アダージョは変ト長調(♭♭♭♭♭♭)の幻想的な世界である。第2主題部はミサ曲におけるテノールソロを彷彿とさせるような神秘的な瞬間である。
実演になかなか触れることのない、しかし極上の室内楽作品である。
ハイデガーの現象学の基本的立場
熊野純彦の訳による『存在と時間』(岩波文庫)には簡潔明瞭な梗概が付されてある。
- 作者: ハイデガー,熊野純彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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序論の第7節において、ハイデガーは自身が採用する「現象学」という思索の方法論について述べる。ハイデガーによれば、現象学という語は「現象」と「学」とに分けられ、それぞれギリシャ語で「ファイノメノン」と「ロゴス」とにさかのぼることができるという。この節は梗概では次のようにまとめてある。
『存在と時間』によれば、哲学一般の「基礎的な問い」は存在の意味への問いであって、その問いを探究する「方法」は「現象学的」なそれにほかならない。(…)ファイノメノン、つまり「現象」とは、「自分を示すもの」「あらわなもの」を意味する。(…)より正確には「じぶんをじぶん自身にそくして示すもの」にほかならない。ロゴスとは「語り」であり、「語りにおいて語られているもの」を「あらわにすること」である。(…)ロゴスは、語られているものを「語られているものの側から」「見えるようにさせる」ことにほかならない。さらには、「真理」を語ることとしてのロゴスとは、語られているものをその「隠されたありかた」から引きだして、アレーテスつまり「隠れていないもの」とすること、「覆いをとって発見すること」なのである。
ハイデガーの思索の基本スタンスはここに宣言されているといってもさしつかえないとおもう。
根底にあるのは、主観客観という二分法の拒否である。あるいはその主観の優位(絶対性)への抵抗である。*1
梗概はこのあとさらにこう続く。
かくて「現象学」とは、「アポファイネスタイ・タ・ファイノメナ」、つまり「じぶんを示すものを、それがじぶんをじぶん自身の側から示すとおりに、じぶん自身の側から見えるようにさせること」である。現象学の標語「ことがらそれ自身へ!」の意味も、このことにほかならない。
いきなりハイデガーの他の著作を読んでもさっぱり意味がわからない。やはり基本が大事である。
意味は作者の意図を超えるか
ハンス=ゲオルク・ガダマー(1900~2002)はハイデガーからの圧倒的な影響を受けつつ、自身の解釈学を打ち立て、1960年に主著『真理と方法』を世に送った。
ハイデガーの思索についてある程度の理解があれば、ガダマーの言わんとしているところをつかむのはそう難しいことではない。ガダマーはおおむねハイデガーの存在論の文脈の中で、テクスト(芸術作品)について語る。彼は主観・客観の二分法を退け、自立したテクストそのものの自己呈示を主張する。我々人間は授かりし言葉を通じてテクストの自己呈示(開け:真理の開け)にまつわる出来事(事態)に立ちあうことになるというわけである。そのうえでガダマーは「解釈」およびその解釈を可能とする「テクスト」の可能性について焦点を当てる。
ガダマーの思索への入門書として次をおすすめする。
- 作者: 巻田悦郎
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順序としては、ハイデガーの後期(あるいは《転回》以後)の思索、たとえば『芸術作品の根源』や『ヒューマニズム書簡』等を読んでからのほうが理解は深まるとおもわれる。とはいえ身近でわかりやすい事例を挙げながら解説しているので読みやすい。
とりわけ第5章の「意図を超える意味」の節はガダマーの思索の理解に大いに参考になる。
ガダマーにとって、言語は人間が意思を表現し伝達するために自由に用いる道具ではない。ハイデガーが言うように、人間が言語を通じて話すのではなく、言語が話し、人間はそれに応ずるだけである。そして、言語の本来のあり方である対話は、対話者たちが「行う」というよりは、「思いがけず入り込む(geraten)」ものである。
著者は「売り言葉に買い言葉」といった例を出しつつ、対話そのものの自律した機能(自己駆動)の優位(人間に対する優位)を述べている。ガダマー自身、『真理と方法』の第1部第2章第1節において「遊び(Spiel)」という例を持ちだしながら、「遊ぶ者」を通じて自己呈示してくる「遊び」そのものの自立した存在性について述べている。
過去の理解は過去との対話であり、テクスト了解はテクストとの対話である。(…)ガダマーはテクスト(伝承)は語りかける(ansprechen)という言い方をしばしばする。(…)対話の事柄が対話者の意図を超えているように、テクストの事柄は著者の意図を超えている。
ここにおいてテクストの本質が語られる。対話が思いもよらぬ方向へ脱線したり、なにかしらの行為が予想外の歴史的事件に及んだりする例はありふれたものだろう。テクスト(解釈)に関わる出来事も同様に、当初の意図を逸脱する可能性を常に秘めているのである。そのようにして解釈に対して常に「開か」れているテクスト(芸術作品)においてこそ(存在の)真理が見え隠れするわけである。
ガダマーの解釈学は結局すべてが「歴史的な存在」であることに根拠を求めていくきらいがある。*1そうでなくともハイデガーの二番煎じという様相はまぬがれえまい。かといって私はガダマーの思索自体が無価値だとは決して考えない。彼はハイデガーが描かなかった領域*2に見事に光を当てているのだから。