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人文系の書籍やクラシック音楽にまつわるエッセイ集

読書録:貧しさ(ハイデガー)

 1945年6月27日、ハイデガーは《貧しさ》と題された短い講演を行った。この講演への導きとなるのは、ドイツロマン主義の詩人ヘルダーリンの次の言葉である。

 我々においては、すべてが精神的なものに集中する。
 我々は豊かにならんがために貧しくなった。

 ハイデガーはこのヘルダーリン箴言を縦横無尽に読み解いていくのだが、ここではタイトルにある「貧しさ」が直接的な主題となっている箇所をみていきたい。

本当の貧しさとは

 ハイデガー貧しさについて次のように述べる。

 貧しさの本質はある〈存在〉のうちに安らっている。真に貧しく〈ある〉こととは、すなわち我々が、不必要なものを除いては何も欠いていないという仕方で〈存在する〉ことを言う。
 真に欠いているということは、不必要なものなしには〈存在〉しえないということであり、したがって、まさしく不必要なものによってのみ所持されているということである。

 敗戦直後のドイツという困窮の極限においてさえ、その貧しさは存在論の文脈で語られる。
 ハイデガーによれば、本当の貧しさとは「我々が、不必要なものを除いては何も欠いていないという仕方で〈存在する〉こと」であるという。すなわち、真に貧しくあるとき、ひとは充足し、すでに満たされてある――ただし「不必要なもの」を欠いた状態で
 熟考を要するように思われる一文であるが、この逆説をきっかけとして論点が「必要の欠如」から「不必要の欠如」へと反転する。不必要の欠如こそ真なる貧しさであるというのだ。そして「不必要なものなしには〈存在〉しえない」という表現において、ハイデガーのいう貧しさとは、ほかでもなく〈存在〉の困窮であることが示される。

不必要なものとは

 では、豊かさのために必要な「不必要なもの」とは一体何であろうか?

 不必要なものとは、必要から到来するのではないもの、すなわち強制からではなく、自由な開かれから到来するものである。
 しかし自由な開かれ[das Freie]とはいったい何であろうか。(中略)自由な開かれ(・・・)とは、無傷のもの、いたわられたもの、利用に供されないものである。「自由にする[freien]」とは、根源的かつ本来的には、保護することを通じて、あるものをその固有の本質のうちに安らわせることである。

 不必要なものは「自由な開かれ」から到来する。その「自由な開かれ」とは、「無傷のもの、いたわられたもの、利用に供されないもの」であるというが、それはすなわち「あるものがその固有の本質のうちに安らっていること」である。それは目的手段という陳腐な関係性に回収されることなく、また現在(いまこの瞬間)だけに埋没することなく、そのものの自己本質の発揮が(そのものの環境世界との相互干渉のうちに)目指されることを意図しているのであろう。*1

貧しいものは幸いである

 ヘルダーリン箴言ハイデガーの講演も、いずれもキリスト教文化に揺るぎなく根差したものである。というのも、キリスト教文化圏において貧しさと幸福*2は、ある特別な形で不可避的に結びついているからである。

 "Happy are you poor; the Kingdom of God is yours!" (Luke 6-20)

あるいは

 "Happy are those who know they are spiritually poor; the Kingdom of heaven belongs to them!"(Matthew 5-3)

 いずれも有名な聖書の言葉である。

*1:ハイデガー存在と時間》以来の彼の基本テーゼである。

*2:貧しさの反対は豊かさであり、幸福の反対は不幸であるように、それぞれ4つの項の結びつき方は必ずしも普遍的に自明というわけではない。

読書録:ハイデガーの超政治 ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い

 難解と言われるハイデガーをどのように読むべきか。その指針となる極めて重要な著作である。

 本書のテーマは、ハイデガーの提起する「存在の問い」が本来的に備えている政治性についてである。
 序論で存在の問いの意味するところが簡潔明瞭に述べられ*1、つづく第一章で「存在の問い」が元来意図する政治性が明晰に記述される。時間のない読者はここまで読むだけでも十分に得るものがあるが、ハイデガー・ナチズム論に興味のある人は第二章を、技術論国家論に興味のある人は第三章を、戦後の思索に興味のある人は第四章を読みすすめることで、本書が目論む存在の問いの政治性についての理解がより深まっていく。
 
 最終的に著者はハイデガーが1930年代を境に「転回」したという従来の見かたに異議を唱え*2、また巷のハイデガー・ナチズム論争や反ユダヤ主義論争を一蹴する。存在の問いが根源的に孕む政治性を抜きにしてなされる議論は不毛なものであり、著者は没政治的ハイデガー解釈の限界を主張するのである。
 
 全編を通じ、これほどまでに情報が整理され、要点が端的に示されたハイデガー関連本を、私はほかに知らない。本書はハイデガーの著作を読むときの確かな道しるべになりうると断言できる。
 
 ちなみに著者はすでに2017年に講談社現代新書から《ハイデガー存在と時間』入門》を発表しているが、ここに載せきれなかった内容が本書へと結実したとのことである。いずれの著作もハイデガー入門の基本書として極めて重要なものであると思われる。

*1:存在の問いの内容についての著者の読みの深さは尋常ではない。たかだか7ページほどの記述のうちにハイデガーのエッセンスが凝縮されている。

*2:著者は「転回」という語の使用によってハイデガーの思索の方向性の大転換を強調するような論調に懐疑的なのであって、思索の深まりという意味では依然として1930年代が起点であると考えていることは付記しておく。

読書録:知覚の哲学(メルロ=ポンティ)

 メルロ=ポンティのラジオ講演(1948)を全7章にまとめ上げた一冊。第6章は「藝術と知覚的世界」と名付けられ、メルロ=ポンティの芸術論の核心が簡潔に述べられている。

 第6章の主要部分を可能な限りコンパクトに見ていきたい。[・・・]は訳者補記。《・・・》及び傍線は筆者補記。

《絵画は知覚を呼びさます》
●(・・・)絵画によって、私たちは生きられた世界に否応なしに直面させられる(・・・)。
●それら《絵画の対象物》は、私たちの眼差しに「熟知した」対象という資格で抵抗なく受け入れられるのではありません。むしろ反対に、眼差しを制止し、それに問いかけ、対象の秘かな実質、つまりそれらの物質性の様態そのものを、奇妙なやり方で眼差しに伝え、そのようにして、いわば私たちの目の前に「血を流す」のです。このように、絵画は事物そのもののヴィジョンに私たちを回帰させました。

 冒頭からメルロ=ポンティ独特の言い回しが非常に印象的であるが、絵画を道しるべとして事物そのものの存在についての思索を深めていく手法としては、ハイデガーの『芸術作品の根源』がすぐさま想起される。メルロ=ポンティも本書『知覚の哲学』を展開するにあたって同様の手法を採用している。
 
 さて、それでは事物そのものへ、まさに肉薄するとはどういうことか。

《知覚することは定義することとは異なる》
●この世界において、事物からそれが現象する様態を切り離すことができない(・・・)。
●(・・・)テーブルを知覚するとき、わたしはテーブルがテーブルとしての機能を遂行する様態に無関心ではいられません。(・・・)わたしにとってのテーブルの「意味」は、現前するテーブルの様相に具現するあらゆる「些細な特徴」から創発するのです。
●(・・・)藝術作品は、それもやはり[知覚物と同じように]肉体的全体性であって、その意味が恣意的なものではありませんし、いわばすべての記号の些細な特徴に結びつき、そこに係留されている(・・・)。これらの些細な特徴によって作品の意味が観る者に顕現します。
●どんな定義もどんな分析も(・・・)作品についてわたしが行う直接的な知覚経験に取って代われません。

 私たちが生きるこの世界において、ある事物と、それがになっている様態とを、わたしは決して分離することができない。わたしにとって、具体的かつ実際的な様態なしの事物などありえないメルロ=ポンティはそのように考える。

 他方、メルロ=ポンティは近代的な芸術観にのっとり、芸術の模倣説をあっさり否定する。

《絵画は世界の模倣ではない》
●(・・・)ブラックは(・・・)、画家は「逸話的事実を再構成しようと追い求めるのではない」のであって、「絵画的事実を構成しようと努めるのだ」と書きました。したがって絵画は世界の模倣ではなく、それ自体が世界なのです。
●彼ら《画家》の目的は対象そのものを呼び出すことではなく、[絵画の外部に依存しない、絵画だけで]充足した情景を画布上に作品化する(・・・)《こと》

 神の創った原像とその模像(=作品)という前近代の作品観ではなく、作者(天才)の創造行為の結果としての作品(自律的世界)という近代的な芸術観の延長線上に、このメルロ=ポンティの記述はあるものと考えられる。

 以上が、第6章の前半である。ちなみに後半は各論として映画や文学のほか、音楽もとりあげられている。
 
 音楽論においては、19世紀的なロマン主義を拒絶する。ある意味で新即物主義であるといえるかもしれない。

《音楽について》
●音楽については、藝術が藝術以外のものに差し向けられるという想像は不可能です。雷雨や悲しみまで描写する標題音楽は例外です。*1
●音楽では、私たちが、言葉を語らない藝術に直面しているのは否定すべくもありません。だからといって、音楽が音の感覚の集積だというのでは全然ないのです。音を通じて楽句が現れるのがわかります。そして楽句のつながりのなかから楽曲全体が出現します。そしてプルーストが言ったように、[音楽を聞く経験のなかから]ドビュッシー地方やバッハ王国からなる可能的音楽の全領域を含んだひとつの世界が現れるのがわかります。
●ただ聴くほかにすべきことは何もありません。私たち自身、私たちの記憶、私たちの感情に帰る必要はありませんし、この作品をつくった人間に言及する必要もないのです。

 メルロ=ポンティの考える理想の演奏(聴取)スタイルは、おそらくはカラヤンやジョージ=セル、朝比奈隆らのそれと同じものであろう。

*1:メルロ=ポンティに限らず20世紀の哲学者が音楽について論じる際、往々にして描写的な音楽や標題音楽は議論から除外される。それはいわゆる絶対音楽の理念を前提とするからであろう。音楽ジャンルの相互関係において明確なヒエラルキーが、すなわち標題的な音楽よりも言葉によらない絶対的な音楽のほうが上位であるという序列が、暗黙裡に了解されているのである。他方で、では純粋器楽とオペラと比べると、それはもうオペラのほうが圧倒的に高級であるということになる。オペラは古典古代の演劇の末裔だからであると、こういうわけである。

読書録:国立西洋美術館 名画の見かた

 東京上野国立西洋美術館へ行ったことがある人にも、行ったことがない人にも、おすすめの一冊。

国立西洋美術館 名画の見かた

国立西洋美術館 名画の見かた

 西洋画の解説本だが、まるで常設展の学芸員ツアーに参加しているような感覚をおぼえる、非常に贅沢な入門書である。
 重要ポイントは第2章までで出尽くしているので、時間のない人はそこまで読めばエッセンスは理解できる。第3章以降は宗教画、物語画、風景画、静物画と、ジャンルごとに進んでいく。宗教画物語画といった高級ジャンルから派生した風景画静物が、それぞれ確固としたジャンルとして確立されていく過程*1もわかりやすく解説されているので、もちろん西洋美術史の解説本としても読める。
 ルネサンスバロックロココといった時代区分や印象派ジャポニズムなどの潮流は知っているけどそれ以上はあまり... という人に打ってつけの良書である。

*1:いずれも17世紀オランダにおいて確立されていったわけだが、それは(1)キリスト教世界観や古典古代といった規範の相対化や(2)中産階級の急速な拡大が主な要因として考えられる。ちなみに、風景画静物は19世紀以降、作者の自由な表現が許容される実験の場へとその性質を変えていった。宗教画や物語画は確かに荘厳高尚なジャンルだが良くも悪くも教養主義的だしジャンルの性質上、題材も決まりきっている。その点、風景画や静物画は作者のオリジナリティを最大限発揮できる自由な領域なのであった。こういった論理は音楽においても見られ、たとえば器楽ジャンルの地位向上(「歌詞」がない方がかえって意味が狭められず、自由で創造的である」)等、ヒエラルキーの下層ないし中心から少しずれたところにあるジャンルほど革新的でありえたりするのである。いずれもまさに、ある意味で近代的な・革命的な同時代的事象なのかもしれない。

読書録:カントの批判哲学

 ドゥルーズによるカントの批判哲学の読み直し。翻訳と解説は國分功一郎である。違和感のない日本語訳、そして非常にわかりやすく有用な解説が読者の理解を大いに助ける。

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

 例によって崇高論に注目したい。崇高についての解説はわずか5ページほどだが随所に魅力的な記述がある。(以下、傍線は筆者補記。)

 崇高の感情が経験されるのは、無定形なものないしは奇異な形態のもの(広大さもしくは威力)を前にした時である。

 無定形なものや奇異なものを前にして、構想力はその呈示の限界に到達する。

 一見したところ、われわれは、われわれの構想力を無力へと追いやるこの広大さを、自然対象に、すなわち、<感性的自然>に帰しているように思われる。だが、実のところ、感性界の広大さをひとつの全体にまとめ上げることをわれわれに強いるのは、理性以外の何ものでもない。この全体は感性的なものの<理念>であるが、そうであるのは、感性的なものが、その基体になるものとして、叡智的ないし超感性的な何かを有している限りにおいてのことである。*1

 こうして、一方での判定においては構想力と悟性が調和的に一致するのに対して、他方、崇高の惹起においては構想力と理性が不調和的に(逆説的に)ではあるが結びつけられる。

 構想力が、自らをあらゆる方面において超える何かによって、自らの限界に直面させられる時、それは自分自身で自らの限界を超え出る。それは(・・・)理性的な<理念>への近づきがたさを思い描くとともに、この近づきがたさそのものを、感性的自然の中に現前する何かとすることによってである。

 ちなみにカント自身は『判断力批判』第29節の「一般的注解」において、構想力と理性の不調和な一致について次のように述べている。

「構想力は、感性的なものの外では自らの支えとするものも何も見いだすことができないのだが、にもかかわらず、自らの限界の消失のおかげで、自らを無制限のものと感じる。この分離作用は、無限なものの呈示である。この呈示は、上の理由から否定的な呈示でしかありえないが、にもかかわらずそれは、魂を拡大するものなのである」。

 ドゥルーズは次のように締めくくる。

 理性だけが「超感性的な目的地」を持つのではない。構想力もまたそれをもつ。この一致においては、魂はあらゆる能力の無規定な超感性的統一性として感じられている。ほかならぬわれわれ自身が、超感性的なものにおける「集中点」としてのひとつの焦点へと関係付けられている。

 もちろんこれを人間中心主義と呼ぶこともできるだろう。のちにハイデガーも『存在と時間』において、同じ問いにぶつかることになる。

*1:この『感性的なものが、その基体になるものとして、叡智的ないし超感性的な何かを有している限りにおいて』という思考法は、実に衝撃的ではないだろうか。しかし感性界超感性界の橋渡しを目論むカントにとっては避けがたいアポリアであった。