正典として読むにせよ、西洋古典文学として読むにせよ、およそ聖書を読むにあたっては適切な導きが必要である。
著者は、キリスト教における共通了解である「使徒信条(信仰宣言)」を聖書読解の導きとする。
使徒信条 Credo とは、次のとおりである。
天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は精霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者と死者を裁くために来られます。
精霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、
罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
著者は、これを次のとおり三部分に分けて分析する。
【A】神について
天地の創造主、全能の父である神を信じます。【B】イエス・キリストが歩む道のりについて
父のひとり子(①先在)、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は精霊によってやどり、おとめマリアから生まれ(②受肉、③誕生)、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて(④地上の生(神の国の宣教)、⑤十字架刑)死に、葬られ、陰府に下り(⑥陰府下り)、
三日目に死者のうちから復活し(⑦復活、⑧顕現)、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き(⑨昇天・高挙)、
生者と死者を裁くために来られます(⑫再臨・終末(神の国の実現))。【C】教会の現在と未来について
精霊(⑩精霊)を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、
罪のゆるし(⑪教会の「今」)、からだの復活、永遠のいのち(⑫再臨・終末(神の国の実現))を信じます。
この共通了解をそのまま受け入れるか否かはさておき、少なくとも聖書世界においては共通了解されているということを了解する限りで、聖書読解は初めて可能となる。
著者は、その上で、たとえば《パウロ書簡》は⑤を、《ヨハネ福音書》は②を、《ヨハネの黙示録》は⑫を、それぞれクローズアップして各文書が成立していると指摘する。ひとくちに聖書といっても文書ごとにその色味は大きく異なってくるのである。
聖書を分析的に読むとき、この視点を持ち合わせているかどうかは極めて重要である。
じっさい《ヨハネ福音書》を他の三つの福音書と比較するとき、その力点の置き方は他と明らかに異なっている。
なぜイエスは弟子たちの前に現れることになったのか。これについての記述が《ヨハネ》にはくりかえしくりかえし出てくるのである。いわゆる奇跡譚や人生訓のようなキャッチーな記述は薄味な一方で、イエスが我々の前に現れたことの意味についての考察が非常に濃厚なのである。
キリスト教信仰においても、また正典たる聖書の各文書においても、立場はそれぞれのものがある。
そうでありつつも、立場を超えてニュートラルな視点で聖書の読み方を提案する本書は、またとない最善の導きである。