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読書録:はじめてのスピノザ 自由へのエチカ

 画期的なスピノザ入門書である。
 論点はいくつもあるが、ここではスピノザの一元論に的を絞って見ていきたい。

 筆者はスピノザ哲学を次のように要約する。

神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。
(・・・)
すべてが神の中にあり、神はすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを「神即自然」と言います。

 自然をも統べる唯一神というユダヤ教キリスト教の文化圏において、スピノザはまぎれもなく異端だった。
 スピノザのいう神とは万物を統括する神ではなく、というよりむしろ万物が唯一神そのものという議論なのである。

 詳しくみていく必要がある。
 著者は『エチカ』の第三部定理六証明を次のとおり引用する。

個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態である(・・・)、言いかえればそれは(・・・)神が存在し・活動する神の能力をある一定の仕方で表現する物である。

 スピノザにとっての実体は、ただ神だけである。本当にあると言えるのは神のみであって、ひとも、自然も、命運も、実体としての神の属性を個々に表現する様態(モード)に過ぎない。
 デカルトを強く意識して、スピノザ思惟と延長(精神と身体)という二属性を、むしろそれこそ人間の理解の限界と位置付ける。ひとは、せいぜいその二属性だけを扱えるのであって、無限に多くの属性無限に多くの様態において表現する個物(すなわち無限者であるところの絶対者:つまりは神)は実際存在すると彼は考える。
 人間の空間認識は三次元が限界であるが、現代の理論物理学における超弦理論のように世界はもっともっと高次元である。そもそも実体ですらなく、個々のモードに過ぎない我々に、どうして無限の属性が把握されうるだろうか。ひとにおいては、唯一の実体である神に、この私という様態で与ることが許容されているのみである。そしてその様態は、神の属性の一つに過ぎない。
 
 スピノザは、三十年戦争で荒廃する世界を見つめながら、何を思索したか。
 諸行無常
 救済する神はいなかった。ひとも自然も、明滅するひとつの個に過ぎない。
 しかし、それでもなおこの世界は確かに存在する。我々の理解をはるかに超えた絶対者に与っているからこそ、この世はこうして確かに存在する。
 国破れて山河在り。
 この世の地獄に立ち尽くしながら、それでも何かを信じて生きてゆかねばならない。目の前のものすべてがかりそめであったとしても、一方では、それでもなお世界を世界たらしめている限りで、絶対者は確実に存在しなければならない。

 はかない個は、一体どこからきて、どこへ向かっていくのか。
 ひとはひとであるがゆえに、その思索を止めることはできない。のちに思索の調停者となるカントからすれば、身の程を知れ、主語の想定と主語の存在を混同してはならない、ということにはなるのだろう。
 ただ、スピノザが見ていた地平は、調停者ないし観察者のカントのそれとは全く異なる。
 
 地獄の淵で、それでも何を信じうるか。
 スピノザの思索は絶望からの脱却を模索する歩みそのものでもある。