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人文系の書籍やクラシック音楽にまつわるエッセイ集

読書録:バロック音楽を考える

 西洋音楽史の概説本を通読し、もう少しバロック時代について深めたい人向け。

バロック音楽を考える Rethinking Baroque Music

バロック音楽を考える Rethinking Baroque Music

  • 作者:佐藤 望
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本

 第4章の音律論及び調律論はとりわけ有益である。
 古典旋法において次第に臨時記号が多用されるにつれて転調という要素が重要になり、6つの主音に基づく6つの旋法(カントゥスドゥルス)が3つの長3度系と3つの短3度系にまとめられ、それらが長調短調へと二分化されていったことで、旋法の多様性よりも多彩な転調によるダイナミックな音楽作りが主流となっていったことが明快に記述されている。
 音律が6から2へと単純化される反面、転調の多様性を強調するという時代の流れの中で、鍵盤楽器の調律も転調の可能性を拡張する方向で研究が進む。それまでシャープ3つ程度、フラット2つ程度が限界だった調律方法(ミーントーン)において、第3音の純正性を切り崩して他の調へと充てがうことで、鍵盤楽器における12の調性が実現可能となった。(ヴェルクマイスターキルンベルガーらの12音非平均律の調律法は特に有名。)他方で、現代に通じる12音平均律がすでに16世紀に考案されていたというのは驚きである。比率計算の実際上、無理数平方根を扱うこととなったため、その実用化*1は数学の発展を待つことになったというのも興味深い。

*1:理論上は実用可能というだけであって、実際には19世紀に入っても12音平均律主流だった。人々は各調固有の響きが残る12音非平均律の調律(それはヴェルクマイスターやキルンベルガーらが考案したもののアレンジであったことだろう)を好んだのである。一方で、トリスタン和音で名高いワーグナーがさらに調性世界を拡張したことで、12音平均律は19世紀末頃からその存在感を増していったとみることもできようか。

中原中也:山上のひととき

 風が吹く。

山上のひととき


いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた


いとしい者はただ無邪気に笑っており
世間はただ遥か彼方で荒くれていた


いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた


私は手で風を追いのけるかに
わずかに微笑み返すのだった


いとしい者はただ無邪気に笑っており
世間はただ遥か彼方で荒くれていた


       (一九三五・九・一九)

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

中原中也:春日狂想

 僕にとっては一番特別の詩だから、ここに載せることすら、ある種の恥じらいのようなものも幾分かあったわけだけど、いやなに、もはやそんなこと言ってるようなあれでも無い。

春日狂想



 1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。


愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。


けれどもそれでも、業(?)が深くて、
なおもながらうことともなったら、


奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。


愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、


もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、


奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。


 2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。


そこで以前より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。


テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田を敬虔に編み――


まるでこれでは、玩具の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。


神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇えば、にっこり致し、


飴売爺々と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、


まぶしくなったら、日蔭に這入り、
そこで地面や草木を見直す。


苔はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日。


参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。



   《まことに人生、一瞬の夢、
       ゴム風船の、美しさかな。》



空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。


久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処かで、お茶でも飲みましょ。


勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。


煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――


戸外はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、


外国に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。


馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。


まぶしく、美しく、はた俯いて、
話をさせたら、でもうんざりか?


それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。



 3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。


つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。


ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。

   《まことに人生、一瞬の夢、
       ゴム風船の、美しさかな。》

 この一節に出会ったときの衝撃ったらなかった。まだ僕は25くらいだった。

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫)

ヘルダーリンと自然概念

 ヘルダーリンの詩作の重要なテーマの1つである自然についての簡潔な解説である。

ヘルダーリンにとっては、自然は所与の外界以上のものであり、彼が生き呼吸する生活圏であり、それ自身がひとつの生きているものであり、彼を愛し支え包括するものであり、そしてまさしくそれゆえにこそ、あらゆる疑念を超えてじかに体験される現実的なものである。いやそれどころか、彼にとって自然は、神的なものであり、神性に満たされたものであり、人間やその卑小で影の薄い自我よりもかぎりなく偉大である。

   ***

彼はこの体験のもっとも純粋な表現を古代人の神話に見いだす。その神話は、自然の秘密めいた活動に生命を吹きこみ、これを崇拝するのである。彼の自然感情そのものが神話的である。

   ***

(・・・)ヘルダーリンの哲学的な詩的夢想の趣旨は、善の価値がどれほど高い位置にあろうとも、それと並んで、またそれとは独立に、自然的なものの領域もまたあり、この自然的なものも根源的で放棄しえない固有価値の担い手であるというところにある(・・・)。自然は道徳に劣るものではない。自然のうちにも神々がおり、崇拝に値するのである。

ドイツ観念論の哲学〈第1部〉フィヒテ、シェリング、ロマン主義

ドイツ観念論の哲学〈第1部〉フィヒテ、シェリング、ロマン主義

ヘルダーリン:あたかも祭日のように

 ヘルダーリンの " Wie wenn am Feiertage..." の第6節4~5行目の訳し方について。

【原文】
 Die Frucht in Liebe geboren, der Götter und Menschen Werk
 Der Gesang, damit er beiden zeuge, glückt.

愛の結実が 神と人との作り成した
歌がめでたく誕生し 神人双方を証しする。
(川村二郎『ヘルダーリン詩集』より)

愛の果実が生まれ、神々と人間を証しするため、
神々と人間との業である歌ができる。
(濵田恂子『ハイデッガー全集第4巻 ヘルダーリンの詩作の解明』より)

愛の中で果実を、神と人間の作品である歌を生む、
両者を証言するために。
(高木昌史『ヘルダーリンと現代』より)

 ヘルダーリンの真骨頂ともいえる箇所である。また、この箇所の理解は、ハイデッガーの後期の思索の理解にも大きく寄与する。

(私訳)
 愛のうちに生まれる果実、神々と人間の所産、
 歌よ、まさに歌が神々と人間のいずれをもまことに証しするために。