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読書録:カントの批判哲学

 ドゥルーズによるカントの批判哲学の読み直し。翻訳と解説は國分功一郎である。違和感のない日本語訳、そして非常にわかりやすく有用な解説が読者の理解を大いに助ける。

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

 例によって崇高論に注目したい。崇高についての解説はわずか5ページほどだが随所に魅力的な記述がある。(以下、傍線は筆者補記。)

 崇高の感情が経験されるのは、無定形なものないしは奇異な形態のもの(広大さもしくは威力)を前にした時である。

 無定形なものや奇異なものを前にして、構想力はその呈示の限界に到達する。

 一見したところ、われわれは、われわれの構想力を無力へと追いやるこの広大さを、自然対象に、すなわち、<感性的自然>に帰しているように思われる。だが、実のところ、感性界の広大さをひとつの全体にまとめ上げることをわれわれに強いるのは、理性以外の何ものでもない。この全体は感性的なものの<理念>であるが、そうであるのは、感性的なものが、その基体になるものとして、叡智的ないし超感性的な何かを有している限りにおいてのことである。*1

 こうして、一方での判定においては構想力と悟性が調和的に一致するのに対して、他方、崇高の惹起においては構想力と理性が不調和的に(逆説的に)ではあるが結びつけられる。

 構想力が、自らをあらゆる方面において超える何かによって、自らの限界に直面させられる時、それは自分自身で自らの限界を超え出る。それは(・・・)理性的な<理念>への近づきがたさを思い描くとともに、この近づきがたさそのものを、感性的自然の中に現前する何かとすることによってである。

 ちなみにカント自身は『判断力批判』第29節の「一般的注解」において、構想力と理性の不調和な一致について次のように述べている。

「構想力は、感性的なものの外では自らの支えとするものも何も見いだすことができないのだが、にもかかわらず、自らの限界の消失のおかげで、自らを無制限のものと感じる。この分離作用は、無限なものの呈示である。この呈示は、上の理由から否定的な呈示でしかありえないが、にもかかわらずそれは、魂を拡大するものなのである」。

 ドゥルーズは次のように締めくくる。

 理性だけが「超感性的な目的地」を持つのではない。構想力もまたそれをもつ。この一致においては、魂はあらゆる能力の無規定な超感性的統一性として感じられている。ほかならぬわれわれ自身が、超感性的なものにおける「集中点」としてのひとつの焦点へと関係付けられている。

 もちろんこれを人間中心主義と呼ぶこともできるだろう。のちにハイデガーも『存在と時間』において、同じ問いにぶつかることになる。

*1:この『感性的なものが、その基体になるものとして、叡智的ないし超感性的な何かを有している限りにおいて』という思考法は、実に衝撃的ではないだろうか。しかし感性界超感性界の橋渡しを目論むカントにとっては避けがたいアポリアであった。