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人文系の書籍やクラシック音楽にまつわるエッセイ集

フランスのガルニエ・オルガンで聞くバッハ

 フランス東部ブルゴーニュ地方、ドイツとスイスの国境にほど近いルフォールの町にはマルク=ガルニエ1984年に製作したオルガンがある。

 フランス風のバッハ・オルガン音楽が容易に想像された。
 しかし、曲目にフランス系ナンバーは1つもなく、むしろ通好みの、これぞドイツ・バロックあるいはドイツ・ルター派音楽とでも呼べるような作品ばかりが並んでいた。
 CDケースを開け、ブックレットを裏返すと、ベルフォール聖ジャン教会のガルニエ・オルガンのファサードの写真、そこに写っていたのは、なんと「北ドイツ」のオルガンだった。長大な低音系パイプ群が双塔のように左右に据えられ、メインパイプ群以外に独立したパイプ群がバルコニー手前にも配された、北ドイツのオルガンに典型的なフォルム。合点した。そういうことか。
 演奏一聴、期待を裏切らない正真正銘の北ドイツ・オルガンだった。瑞々しく輝かしく、それでいて透き通るような凛とした音色、低音から高音まではっきりとして聞き取りやすい明瞭な発音。
 このオルガンは、フランスにあるドイツのオルガンだったのだ。

バッハ:ヨハネ受難曲(バッハ・コレギウム・ジャパンとコレギウム・ヴォカーレ)

 2021年のイースターは4月4日である。

 ここに甲乙つけがたい二つのヨハネ受難曲の演奏がある。奏者はいずれも、いわゆる老舗の古楽集団だが、方向性はかなり異なる。

 バッハ・コレギウム・ジャパンの合唱隊は各パート5名(アルトは6名)で構成されている。アルトの補強に象徴されるように、非常に情熱的で力強い音楽である。作曲者が描き出そうとしたドラマティックな受難劇の迫力を余すところなく伝える息遣いは終始、心地よい熱を帯びている。
 
 第二部の第21曲(群衆によるイエスの十字架刑の要求)以降は壮絶の一言に尽きる。
 (1)エヴァンゲリスト福音書記者ないし伝道者、語り部)、(2)群衆(民衆や兵士、ユダヤ教指導者など)、(3)イエス、(4)ピラト(ローマ帝国ユダヤ属州の総督)、(5)コラール合唱の五者が織りなす対比は圧巻である。
 受難ドラマの案内人であるエヴァンゲリスト、自分たちの言動の意味を全く理解できないでいる群衆、事の成就への道をひとり歩むエス、両者の狭間で苦悩するピラト、そして彼ら全員を現在(聞き手)の地平から見つめ、寄り添うコラール合唱
 
 バッハ・コレギウム・ジャパンは今から300年前のドイツ・ライプツィヒで鳴り響いたバッハの音楽を本当に生き生きと現代に蘇らせている。

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 前者がはっきりとした輪郭線を描き、濃淡のはっきりとした、コントラストのあるサウンドだとすれば、後者は丸みを帯びた柔らかなそれである。

 コレギウム・ヴォカーレは老舗中の老舗である。合唱隊は各パート4名で構成されており、響きの美しさは前者と本当に甲乙つけがたいものがあるわけだが、とにかく非常に渋い音作りで、作品そのものが持っているドラマティックな要素のうちにも、合唱それ自体の美しさを決して失わない。テンポ感や音楽の表情はじゅうぶんに生き生きとしながらも心地よい抑制が効いている、この絶妙なバランス感覚。
 
 最も分かりやすいのが最終曲のコラール合唱である。
 賛美を力強く歌い上げる前者に対し、もちろんそういった言葉の意味を込めつつも、声の美しさや声そのものの持つ力強さでもって奏でる後者。いずれも他でもない魅力に満ちあふれている。

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 ライプツィヒ音楽監督だったバッハが受難曲というドイツ・ルター派の伝統的な典礼音楽ジャンルに初めて真正面から取り組んだ、その所産としてのヨハネ受難曲
 保守的な市当局から演奏中止を言い渡されたというのもうなずけるそのドラマティックな音楽表現は、21世紀においてなお一つの衝撃である。

読書録:弁論術(アリストテレス)

 ひとはよいものに惹かれる。ひとはよいものを求める。よいものとは何か。
 アリストテレスは『弁論術』第1巻の第6章において、疑いようもなくよいものを10点列挙している。

  1. 幸福
  2. 精神の徳(正義、勇気、節制、寛大、鷹揚)
  3. 身体の徳(健康、美しさ)
  4. 富(所有における優秀性)
  5. 友と友情
  6. 名誉、名声
  7. 語る能力と行動する能力
  8. 恵まれた素質(記憶力、理解のよさ、鋭敏さ)
  9. 知識、技術、生きること*1
  10. 正しさ(公共的観点における)

よいものの定義とは

 ここから何を導き出すことができるだろうか。アリストテレスよいものについておおむね次のように定義する。

ただそのもの自体が目的で選ばれるもの、また、われわれが他のものを選ぶ時の目的となるもの、また、すべてのものが、或いは、感覚もしくは知性を持っているものがすべて求めているもの(・・・)、さらにまた、それが手許にある時には人がよい状態に置かれ、自ら満ち足りているようなもの、また、それだけで足りるもの、また、今挙げたようなよいものどもを作り出すか、もしくは維持するようなもの、また、それらよいものが結果としてつき随うもの、また、それらとは反対のものを阻止し、滅ぼすようなもの、このようなものがよいものである。

 よいとされるものについての見事な定義づけである。これ以上でも以下でもない、まったく過不足のない記述のように思われる。また、目的というキーワードが一番初めに出てくるのもまさにアリストテレスらしい。
 
 とはいえアリストテレスはこの規定に自ら満足しなかったようで、このあとさらにといったキーワードを示しながら定義を拡張していくのだが、注目したいのは次の箇所である。

また、快楽もよいものでなければならない。なぜなら、動物はすべて生まれながらにして快楽を求めるからである。それゆえ、快いものも美しいものも、共によいものだということになる。なぜなら、快いものは快楽を作り出すし、一方美しいものも、その或るものは快いものであるし、或るものはそれ自体で(無条件に)望ましいものだからである。

 善や徳につづけてアリストテレスについて述べる。生きものの本質としての快への欲求は否定されるべきものではなく、むしろと同列に語られるべき「よいもの」である。冷静でありながらも非常に生き生きとして人間味あふれる定義であり、ここにアリストテレス流のリアリズムを見いだすのはたやすいだろう。
 
 ちなみに、この箇所の後半部分の読み方について、訳者註によれば次のとおりである。

ここで美しいもの(ta kala)が二つに分けられているが、その一つは、例えば身体の美しさがそうで、これはその自体として望ましい(したがって、よい)のではなく、快いがゆえに、その快楽によって望ましいのである。これに対し、いま一つは、道徳的優秀性で、これはそれ自体が(無条件で)望ましい。

 要するに、こういうことである。

【P】快楽はよいものである。
   (なぜなら快楽はすべての動物の本来的な性質だから)
 (A)快いものはよいものである。
   (なぜなら快いものは快楽を作り出すから)
 (B)美しいものはよいものである。
   (x) なぜなら美しいもののうち
     あるもの(身体美)は快いものだから
   (y) なぜなら美しいもののうち
     あるもの(精神美)はそれ自体で(無条件に)望ましいものだから

※(y)については 、よいものの定義の冒頭の「ただそのもの自体が目的で選ばれるもの」あるいは「それが手許にある時には人がよい状態に置かれ、自ら満ち足りているようなもの、また、それだけで足りるもの」という箇所を参照すべきもののように思われる。

美しいものの定義とは

 アリストテレス自身は美しいものについてどのように考えていたのだろうか。
 『弁論術』第1巻の第9章において、美しいものは次のように定義される。

美しいものとは、すべて、それ自体望ましいものであって、かつ賞讃に値するもの、或いは、よいものであって、しかも、よくあるがゆえに快いもの、がそうである。

 アリストテレスが真っ先に挙げる美しいものとは、(精神の徳)である。なぜならば『それはよいものであって、しかも賞讃に値するから』である。正義、勇気、節制といった人格的な徳、これこそが疑念の余地なく美しいものであって、アリストテレスはこれについて十数点にも上る具体例を列挙しながら徳の美しさについて(延々と)述べるのであるが、その列挙の終盤において、やや趣の異なる例が示される。

利を生まない所有物は美しい。なぜなら、それらはより自由人に相応しいものだから。

 これについて、訳者註によれば次のとおりである。

一般に利益を生むことを否定しているのではなく、利益を生んで他のものに役立つことで、所有物そのものの美しさが決まるのではない、と言っているのである。つまり、他のものに役立つということは目的に奉仕することであり、自由に反するからである。

 美しいものを列挙するアリストテレスは、最終的に自由について語る。
 特定の利益の享受という目的に供されることなく、それでもなおその人のもとにあるもの、それは観想的な生の営み、真に自由な生き方においてのみ見いだされるものでもある。目的手段という関係性から逸脱するもの、その逸脱にこそは宿る。
 
 ここにハイデガー現象学的な存在論を連結させることもできるだろうし、カントの「目的なき合目的性」や「美的無関心性」といった18世紀の認識論や感性論の概念を導入することもできるだろう。あるいは観想的生ということから中世の神学思想へ移行することもできるだろう。

  + + +

 アリストテレスの『弁論術』は、その名の通り「上手いしゃべりを目指す人のためのハウツー本」である。議会や法廷での効果的な答弁や巧みな演説について、その方法論が具体的かつ網羅的に述べられており、きわめて実際的かつ実用的な著作である。
 ソクラテスプラトンの立場からすればそれこそ「量産型ソフィスト育成マニュアル」とでもいった悪書の類かもしれないが、現代においてなお、いわゆるスピーチ(聴衆を前にしての一人しゃべり)という欧米独特の言論文化(それはリンゴで有名な電子機器メーカーの新製品発表イベントでの基調講演やアメリカ合衆国大統領就任式での就任演説を想像していただければ差し支えない)を理解する上でも大変価値ある一冊である。
 
 にもかかわらず本書はそのような全体像を差し引いてなお余りあるものが、ほかでもないアリストテレスの卓抜した人間分析が、随所に光る。
 私たちにとってよいものとは、美しいものとは、自由とは何か。
 小手先のテクニック論にとどまらない、アリストテレス人間学の真髄に触れることのできる一冊である。 

アリストテレス 弁論術 (岩波文庫)

アリストテレス 弁論術 (岩波文庫)

*1:アリストテレスによれば『他にはよいものを何一つ伴わないとしても、それ自体として望ましい』という点において、知識、技術、生きることはいずれもよいものだとされる。

読書録:三つの内なる貧しさ(エックハルト)後編

 前編においてすでにエックハルトの説話は完結しているようにみえるが、続きがある。
bachundbruckner.hatenablog.com

 以下、ひとつひとつが少し長くなるが、いずれも極めて重要な、ひと続きの意味を形成する箇所であるので抜粋しつつも断片的にならぬよう引用する。

人は、神が働くことのできる場でもなく、またそのようなどんな場をも持たないほど貧しくなければならない(・・・)。人がなお自分の内に場を保持しているかぎり、人はなお区別性を保持していることになる。(・・・)神のかの有の内に、つまり、神がすべての有を超え、すべての区別を超えているところ、そこにわたし自身はあったのであり、そこでわたしは自分自身を意志し、そしてわたしというこの人間を創造することをわたし自身の意志で認めたのである。

 エックハルトは至極の一(一者)について語る。神と私の関係性は、通常であれば二者として見るべきところ、これをあえて一者としてとらえるのである。驚愕の事態である。

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 エックハルトは当代随一の神学者であった。パリ大学やケルンの神学大学の教授職を務め、またトマス・アクィナス(1225?-1274)を輩出したことでも有名な修道会、ドミニコ会の総長代理の任にもあたっていた。
 にもかかわらず、彼は晩年に異端審問にかけられる。この異端審問騒動は教皇大司教といった当時の聖権における最高権力者レベルの人々をも巻き込み、ついに彼の生前には決着しなかった。(本人の死後、エックハルトは異端宣告を受けることになる。)
 
 無理もない。「神のかの有の内に、つまり、神がすべての有を超え、すべての区別を超えているところ、そこにわたし自身はあったのであり、そこでわたしは自分自身を意志し、そしてわたしというこの人間を創造することをわたし自身の意志で認めた」等の表現が受け入れられるわけがない。というよりこれは現代においてさえも衝撃的に過ぎる主張である。
 
 しかし、エックハルトはここからさらに思いもよらぬ飛躍を遂げる。

それゆえに、わたしの時間的生成からではなく、わたしの永遠なる有からいえば、わたしは、わたし自身の原因なのである。つまりわたしは、生まれざるものであって、わたしの不生というこのあり方からいえば、わたしが死ぬということもけっしてありえない。わたしの不生というこのあり方からいえば、わたしは永遠の過去から存在していたし、今もあるし、永遠にありつづけることになる。

 時間的無限性すなわち永遠という神の属性がそのまま「わたし」へ流入する。と同時に、すべての原因であるところの神という属性が、これもそのまま「わたし」へと流入する。わたしは、だから死ぬこともなく、生まれてもいない。そして諸物の原因(目的因)はわたしのうちに存する。

わたしの誕生というあり方によってあるものは、死ねば無に帰すであろう。それは死すべきものだからであり、時間と共に朽ちゆかざるをえないものである。私の永遠なる誕生において、すべてのものは誕生し、わたしはわたし自身とすべてのものとの原因となったのである。(・・・)わたしは、一切の被造物を超え、「神」でもなく、被造物でもなく、むしろ、わたしはわたしがあったところのものであり、今も、これからも、絶えることなくありつづけるところのものである。

 究極の目的因、すなわちすべての目的の目的因としてのわたしの永遠性へと至るこの飛躍のうちに、至極の豊かさが実を結ぶ。

この突破においては、わたしと神とが一であるということがわたしに与えられる(・・・)。そこではわたしは、一切の事物を動かす、不動の原因(・・・)である。(・・・)ここにいたって、神は精神と一であり、そしてこれこそが、人の見出すことのできる極限の貧しさなのである。

 神のみに許される属性(永遠性および究極目的因)が余すところなくわたしに与えられ、ついにわたしは一(一者)に至る。
 
 前編でのエックハルトの議論とつなぎ合わせると、こういうことだろうか。
 認識や欲求を含めた精神が限りないに満たされてゆき、この無の充満がその限界を迎えると、ついにわたしは無の底(無底)を突き破り、貧しさの極限すなわち至極の豊かさに至る。ここにおいてわたしは、その尽くしがたい恩寵のゆえに永遠性や究極目的因を分け与えられ、至純の一(一者)としてその無区別性(無限性)を、を発揮する。

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 上述のとおりエックハルトは死後に異端宣告を受けたがため、その著作物の多くは廃棄、処分され、また運よく滅失を免れたものであってもそのほとんどは日の目を見ることはなかった。
 しかし、このあまりにも充実した、衝撃的な文筆の数々である。その思索は不思議な魅力に満ちており、数少ない著作は人知れず伝承され、後のドイツ神秘主義ドイツロマン主義へと結実することとなる。

エックハルト説教集 (岩波文庫)

エックハルト説教集 (岩波文庫)

読書録:三つの内なる貧しさ(エックハルト)前編

 中世の神学者でありドイツ神秘主義の源流とも目されるエックハルト(1260-1328?)の有名な説話《三つの内なる貧しさ》をみていきたい。テーマはこの聖句である。

"Beati pauperes spiritu, quoniam ipsorum est regnum caelorum."(羅)
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"Happy are those who know they are spiritually poor; the Kingdom of heaven belongs to them!"(英)

 エックハルトはこの有名な聖句(マタイ5-3)について次のとおり宣言し、説話を開始する。

何も意志せず、何も知らず、何も持たない人、そのような人こそが貧しき人である。

 貧しさの要件は「(1)意志せず、(2)知らず、(3)持たざること」ということになるが、これはどういうことだろうか。ひとつずつ順番にみていくことにする。

何ら意志することのない人こそ貧しき人である

 第一の要件である「意志しないでいること」について、その論点となる箇所を抜き出すと次のようになる。

・最愛なる神の意志を満たそうとすることが自分の意志である、ということがその人にまだあるかぎり、このような人には、わたしたちが話そうとしている貧しさはない(・・・)。なぜならば、このような人は、神の意志を満たそうとする意志をまだ持っているからである。
・神の意志を満たそうとする意志を持ち、永遠と神とを求める欲求を持っているかぎり、あなたがたはけっして貧しいことにはならない(・・・)。なぜならば、何も意志せず、何も求めない人だけが貧しき人だからである。

 ありとあらゆる意志欲求が阻却されてこそ真に貧しいということになる。
 御言葉にかなう行いを為そうとすることは、一般的にはよいことであるが、それは本当の貧しさではないとエックハルトは考える。意志や欲求はそもそも私にとっての外的な目的因を前提とする。究極の目的因は、私の外部には存在しない。私の内部にこそすべての目的の目的因があるはずなのである。

何ら知ることのない人こそ貧しき人である

 次に、第二の要件である「知らないでいること」について、その論点となる箇所を抜き出すと次のようになる。

・自分が、自分自身のために生きることも真理のために生きることも神のために生きることもしていない、ということさえまったく知らないというように生きなければならない(・・・)。
・神が自分自身の内で生きていることを知ることもなく、認識することもなく、感ずることもないほどに、すべての知にとらわれることなくあらねばならないのである。さらにいうなら(・・・)自分の内で生きるどんな認識にもとらわれることがあってはならない。
・自分の内で神が働いていることを知ることも認識することもないほどに自由にしてとらわれることなくあらねばならない。そのときはじめて人は貧しさを所有することができるのである。

 ありとあらゆる認識が阻却されてこそ真に貧しいということになる。
 認識し、対象化することで、私はかのものにダイレクトに触れることができなくなる。たとえ極限の近さにまで及んだとしても、その距離がゼロになることは決してない。認識の対象となったものとの関係は、自由ではない。認識が働く(働いてしまう)ということは、不自由さのあらわれなのである。

何ら持つことのない人こそ貧しき人である

 そして、第三の要件である「持たないでいること」について、その論点となる箇所を抜き出すと次のようになる。ここにおいて以上二つの要件は総合的に包摂される。

・神は、神が働くことができる場を人がみずからの内に持つことを神のわざのために求めているのではけっしてない(・・・)。
・人が神と神のわざすべてとにとらわれていないとき、それを精神における貧しさという(・・・)。なぜならば、人がそれほどに貧しくなったのを神が見出すとき、そのときに(はじめて)神は神自身のわざをなすのであって、人はそのような神を自分の内に受け、かくして神が働くのは神自身のうちであるという事実から、神は神のわざの固有の場となるのである。
・人は、神が働くことのできる場でもなく、またそのようなどんな場をも持たないほど貧しくなければならない(・・・)。

 人が自らこしらえる精神的な(場所、領域)などというものは、実に大したものではない。認識欲求が阻却されるということは、もはや思うところの精神の場さえも阻却されるということである。脱我における脱我性、あるいは無私における無私性はここにおいて究極となる。
 こうして、限りない無が私を満たすことで、私は本当の意味で貧しくあるのである。

エックハルト説教集 (岩波文庫)

エックハルト説教集 (岩波文庫)