心の貧しい人々は、から始まる「山上の説教」はとても有名だが、その冒頭部分の一節に次のようにある。
心の清い人々は、幸いである
その人たちは、神を見る。
よく生きようとするなかで、有用性や有益性に回収されない何かに、人は出会う。
それは、善い行いであったり、美しい自然であったり、さまざまである。
アリストテレスは、それを観想的生活として、最上の生活態度として見ていた。実用性や利便性に埋没しえない何か、その圧倒的かつ固有的な存在感や真実味を見定めることこそ、知のあるべき姿と考えていた。
アリストテレスの思索は、中世スコラ学を通じて、デカルトやライプニッツ、カントへと流れ込む。デカルトやライプニッツにおいて、自然美や芸術美は知的な喜びであり、カントにおいてそれは無関心性として逆説的に定義された。
20世紀に入っても、その論点は西洋の思想を大いに基礎づけている。ハイデガーは手段目的関連というキーワードを用いて、それに没却されずにあるもの、人間や芸術、存在そのものについての思索を深めた。
旧約新約の時代において、そういった思考はひとえに神へと集約される。
聖書の言葉と古典古代の思索をたどることは、西洋文化の根底にある思考の軌跡を確認することでもある。